Man and Woman

clover

02.

 その日の帰り、佐奈は閉店間際の百円ショップに駆け込み、フレームやポストカードを買った。
「あれを入れると、きっとかわいいと思うんだよね……」
 自転車を走らせて自宅のアパートに戻る。
 玄関を開けてまっすぐに小さな本棚に向かった。

 小さなワンルームのアパートの部屋は古いものではあったが清潔に整えられていて、若い女性の一人暮らしにも不便のないものだった。
 最初は住み込みで働こうと思っていたが、園長の意向で一人暮らしをすることになった。
 さくら園では、入所している子どもたちは最終的には自立して生活できる人間になることを目標として育てている。
 佐奈は高校生のときに新聞社の寮で暮らしていたとはいえ、社会人となった今、また園で暮らすよりも自分で家賃を払い、自炊をして生活するべきということを園長に言われて、今のアパートに住むようになった。

 本棚の中から深いエンジ色のやや古い厚い本を取り出す。
 それは聖書だった。
 子どもの頃から何度も読み返しているせいで、ページの端が折れていたり、皺になってしまっているページもあるけれど、佐奈の数少ない宝物のひとつだ。
 小さな折り畳みテーブルの側に座り、聖書を開く。
「ここに挟んであったはず……あった」
 その中には四葉のクローバーを押し葉にしたものが挟まれていた。
 それは佐奈がさくら園に入ったばかりの頃、庭の隅のクローバーの中で見つけたものだった。
 佐奈はクローバーを大事そうに指先でそっと摘んで取り出す。
「えっと、何か……ハギレを確かここに仕舞っておいたと思うんだけど」
 と、整理ダンスの引き出しを開け、高校の家庭科の授業で使った、ギンガムチェックのハギレを取っておいたのを取り出した。
 その布をフレームの大きさに合わせて鋏で切り、その上にクローバーの押し葉を乗せる。
 ずれないようにゆっくりと、それをフレームにいれた。
「できた」
 木製のフレームの中に、少し色あせた緑色をした四葉のクローバーが挟まっている。
 フレーム越しに、指先でクローバーをそっと撫でた。



 次の日、佐奈はカウンセリング室に入っていった。
 今日は麻野は出勤してこない日だったが、次に麻野が来る前に少しでも模様替えをしたいと思ったからだった。
 机の前の壁にクローバーのフレームを飾り、空いている壁にもポストカードを三枚ほど貼る。
 それだけでも、昨日までの殺風景さに比べたら十分に『部屋』らしくなった。
「本当はカーテンとかも替えられたらいいんだけど……」
 生成り色をしたカーテンを少し引いて、また元に戻した。

 園の運営は国や地方自治体の補助と寄付金で賄われている。
 もともとそう多くはない収入のなかで運営されているから、できるだけ支出を抑えた質素な暮らしを心がけていた。
 だから破けてしまって縫うこともできないようにならないと、カーテンの買い替えなども難しい。

「でも、ちょっとは良くなったかな……」
 部屋を見回して、
「くま、洗ってあげたらいいかもね」
 と、ソファに座らせてあったぬいぐるみを抱き上げ、カウンセリング室を出た。


 三日後の昼前、出勤してきた麻野がカウンセリング室に入った後すぐに事務室の佐奈を訪ねてきた。
「おはようございます、松井さん」
「あ、麻野先生……おはようございます」
「あの部屋、きれいにしてくれたのって松井さん?」
「あ、はい……あんなちょっとしかできなかったんですけど」
「いやいや、やっぱり雰囲気違うよ。ありがとう」
 と微笑んで、じゃあ、と言って戻ろうとした麻野に、
「あ、あの、麻野先生」
 かたり、と椅子から立ち上がって声をかけた。
「どうかした?」
 振り向いた麻野に、少し言いにくそうにしてから口を開く。
「あ、……あの、わたしの名前……下の名前で呼んでもらってもいいですか……?」
 麻野は一瞬不思議そうな表情を浮かべたが、
「……佐奈ちゃん、でいいのかな?」
 と言って、また穏やかな微笑みに戻る。
「はい、……すみません、変なこと言って……」
 佐奈は消え入りそうな声を出して俯いた。
「いや、そのほうがいいならそうさせて貰うよ」
「すみません、ありがとうございます」
 ぺこりとお辞儀をして、やや俯き加減のまま椅子に座った。
「佐奈ちゃん」
 麻野の声に顔を上げた。
「あ、はい」
「……何かあったら……僕でよかったら話聞くから、いつでもおいで」
「あ、……はい、…ありがとうございます」
 もう一度お辞儀をして顔を上げると、やさしく目を細める麻野と目が合ってしまい、慌てて俯いた。
 そんな佐奈の様子を見て、麻野はくすくすと笑いながら事務室を後にした。

 ……麻野先生は、やさしいかもしれない。

 佐奈はぼんやりと麻野のことを考えていた。
 窓辺のカーテンが揺れる。
 今日も晴れた暑い一日になりそうだった。
 佐奈は無意識にブラウスの袖口のボタンを外し、袖を捲りかけて手を止める。
 小さなため息をついてから、ボタンをはめ直した。



 佐奈の退勤の時間はとっくに過ぎ、夕食の前の子どもたちと庭で水撒きをしていたときだった。
 ふと、カウンセリング室の窓からこちらを見ている麻野と目が合った。
 麻野が佐奈に向かって手を振る。
「麻野先生。……あれ、ミサトちゃんがお話するんじゃなかったでしたっけ」
「そうだったんだけど、部活なんだってさ。まだ帰ってこないんだよ」
 肩をすくめて、それでも表情は柔らかい。
「えっと、じゃあ、コーヒーでも入れましょうか?」
「ありがとう。水撒き終わってからでいいよ」
「あ、はい。もうすぐ終わります……ちょっと、待っててくださいね」
「うん、いつでも大丈夫だよ」
 まだ佐奈は真っ直ぐに麻野の顔を見ることができなかったけれど、それでもできるだけ普通に話せるように努力していたし、また麻野のほうも佐奈に対しては非常にやさしく接しているように感じられた。
 それはもともと人当たりがいい性格なのか、佐奈が自分と同じ施設で育ったという仲間意識によるものなのか、佐奈にはわかりかねていたが、何度それを考えても『あんまり気にすることもないのかな』という結論になる。
 ただ、麻野のことを考えているときに誰かに会うと、何かいけないことを考えていたような気持ちになってしまい、つい狼狽してしまってかえって不審に思われることが度々あった。

 コーヒーを入れたカップをお盆に乗せて、カウンセリング室のドアをノックした。
「どうぞ」
「失礼します」
「ああ、佐奈ちゃん。ごめん、退勤時間過ぎてるんだよね?」
「あ、いいえ、いいんです。帰ってもひとりなんで……」
「そうか。……ありがとう」
 と、カップを受け取った。
「いえ……」
 麻野の指は男性らしくやや骨ばっているもののすらりと長く見えて、佐奈は思わず見とれてしまう。
「どうかした?」
 そう聞かれて慌てて目を逸らして下を向いた。
「あ、いえ、なんでもないです……」
「……佐奈ちゃん?」
「はい」
「……カウンセリング、してあげようか」
 今暇だし、と言葉を続けて微笑む。
「え?」
「……佐奈ちゃんの子どもの頃の資料、あったんだ」
 と、机の上のやや古びたファイルを開く。
 佐奈の目にも自分の名前が記されているのが見えた。
「今でも、男は苦手?」
 ファイルをぱらぱらと捲りながら、麻野は佐奈に問いかけた。
「あ、………」
 一瞬答えを躊躇う。
 目の前にいる麻野も男性だ。
 はっきり苦手と言ってしまうと角が立つだろう。
 しかし、麻野はこのような相談を受けるプロだ。
 自分の苦手なことをはっきりさせた上で、何かいい対策を考えてもらえるかもしれない。
 そう思いなおした佐奈は、
「えと、……少し……昔ほどではないんですけど、やっぱりお話しするのは、緊張します……」
 と、言葉を選びながら返事をした。
「そういうのはどう思ってる?」
 麻野は新しいレポート用紙を1枚取り、メモをしている。
 左手でソファに座るよう促し、佐奈はその仕草に従ってソファに浅く腰を下ろした。
「どう、とは……」
「このままでも構わないとか、もう少しちゃんと話ができるようにしたい、とか」
 麻野はメモをしている紙をクリップボードに挟み、ソファに座っている佐奈に向かい合うように椅子を動かした。
「あ、……本当は、ちゃんと目を見て話ができるようになればいいなと思います。……相手の方が誠意を持って接してくれてても、今はちゃんと返せなくて……」
 高校は共学だったけれど、男子生徒とは三年間まともに話せたことはなかった。
 佐奈にとってはそれは後悔のひとつだった。
 もう少し、他の子と同じようにできたらいいのに。
 そう思っても行動に移せない自分がもどかしかった。
「……これから、こうやってお仕事していくにも……相手を選ぶことなんかできないし、してはいけないと思うんです。でも、まだなかなか……」
「そうだね。でも無理をしても君にストレスがかかるだけだからね……少しずつ、かな」
「そうですね……」
「高校ではどうだった? 好きな人なんかいなかったの?」
「い、いません。全然、無理です……そこまで頭が回りません……」
 ぶんぶんと頭を横に振って顔を真っ赤にする佐奈を見て、麻野は少し笑った。
「もったいないな、佐奈ちゃんかわいいのに」
「か、かわいくないですよっ……からかっちゃだめです先生っ……」
「からかってるつもりはないんだけどね」
 ふと、麻野の指が佐奈の頬に向かって伸びる。
 佐奈がはっと気がついたときには麻野の指先が頬に触れたときだった。
 その瞬間、佐奈の肩がビクッと大きく震える。
「先生……」
「大丈夫だよ。怖がらなくていい」
 それでも佐奈は体を震わせて目をきつく瞑った。