Man and Woman

clover

03.

 麻野の指先が佐奈の頬をゆっくりと撫でた。
 頬から髪に触れて、顎に沿って指を滑らせる。
 その間ずっと、佐奈は奥歯をかみ締めて目をきつく閉じていた。
 それでも体が震える。
 佐奈にはどのくらいの時間そうしていたのかわからなかった。
 窓のカーテンが揺れる音が微かに聞こえる。
 ほんの少し唇を掠めた後、麻野の指の感触が消えた。
 佐奈が恐る恐る目を開けると、先ほどと同じように穏やかに微笑む麻野の顔が目に入った。
「……先生………」
 搾り出すようにそれだけ声に出した。
 佐奈自身、麻野に対して何を言おうとしたのかわからなかった。
「怖いことなんてないよ」
「でも……」
 麻野は椅子をくるりと回して机に向かい、机の上のファイルをまとめた。
「……ミサトちゃんは、また次のときに話を聞くことにするよ。…伝えておいてもらえるかな?」
 何事も無かったかのように顔だけ振り向いて、まだソファに座ったままの佐奈に言葉をかける。
「あ、……はい……」
「……また、おいで」
 はい、とはすぐに返事ができなかった。
「……失礼します……」
 ふらふらと立ち上がり、佐奈はカウンセリング室を後にした。


 おぼつかない足取りで事務室に戻って自席に腰を下ろす。
 まだ、動悸が激しい。
 麻野の指先の感触も、今でも触れられているかのように佐奈の頬に残っていた。
「……びっくり、した……」
 喉の奥が張り付いているような感覚して、思うように声が出ない。
 水を飲めば少し落ち着くかもしれない、と思い立ち上がるが、膝に力が入らずによろめいた。
 やっとの思いで流し台にたどり着き、ゆっくりと水を喉に流し込んでいった。
 水を飲みながら、麻野に触れられたことをもう一度思い返す。

 恐怖感はあった。
 男性に触れられたのは父親以来だ。
 父親には暴力を振るわれた記憶しかなかった。
 だが、麻野は違った。
 指先だけでゆっくりと頬や髪を滑るように撫でていく感触は、佐奈が今まで味わったことのないものだった。
 壊れやすい大切なものに触れるような、いとおしむような触れ方に感じられて、最初に感じた恐怖感と同じくらい大きな快感を伴っていた。
 だから、余計に怖くなる。
 コップを唇から離し、長いため息をつく。
 自分で頬に触れると、まだ熱かった。

 麻野はまた来るようにと言っていた。

 ……また、さっきみたいにするんだろうか。

 それは、自分にとっていいことなのかどうか、佐奈には判断できなかった。



 その夜、佐奈は礼拝堂にいた。
 さくら園に来た頃から、迷ったり悩んだりしたときにはここでひとりで過ごすことが多かった。
 ただぼんやりとしているだけだったり、一心に祈りを捧げたり、涙を流すこともあった。
 そのときによって佐奈がすることは違っていたが、どちらにせよ不思議と気持ちが落ち着いていくのは変わらなかった。
 そしてその日は前列の椅子に座り、ぼんやりと祭壇を見上げていた。

 ……麻野先生は…あれは、カウンセリングの一環で……わたしが男の人に慣れるように、そう考えてのこと……麻野先生は、専門の先生なんだから、お任せして……でも、………。

 佐奈の頭の中では、夕方の出来事が繰り返し思い返されていた。
 ゆっくりとやさしく触れる麻野の指の感触を思い出し、見ていなかった指先を想像してしまう。

 ……わたし、怖かったけど…嫌じゃなかった……どうして………。

 恐怖と同時に感じた快感はなんだったのか、佐奈にはわからなかった。
 ただ、快感と感じた自分の感覚がまた恐ろしく感じて、肩を両手でぎゅっと抱きしめた。




 夏休みの子どもたちは普段と違って昼間もさくら園にいるため、事あるごとに佐奈のいる事務室に遊びに来ることが多く、佐奈にとってはうれしいことではあるが、仕事が進まなくて毎日残業していくことになってしまっていた。
 佐奈が子どもの頃にもこの仕事をしている人がいて見ていたはずだったが、想像していたよりも仕事が多くて、就職してからやや驚いたものだった。

 昼食を子どもたちと一緒に取り、事務室に戻った頃、
「佐奈ちゃん、今忙しい?」
 と、やや年配のシスターが事務室に顔を出す。
「うーんと、大丈夫です。何かご用事ですか?」
「うん、お願いしたいことがあって。来週のキャンプのことなんだけど」
「あ、はい」
 毎年夏休みに園の庭でキャンプをすることになっている。
 テントを張り、花火をしたり外で食事を作ったりと、子どもたちにとって楽しい行事の一つだ。
 佐奈も子どもの頃キャンプをとても楽しみにしていた記憶がある。
「注意事項とかのプリントをね、作ってもらいたいんだけど……大丈夫かしら?」
「はい、確か去年のがどこかに……見たことあります。それとだいたい同じでいいんですよね?」
「そうそう、いいかしら? お願いするわ」
「はい、作っておきますね」
 ありがとう、とシスターは笑顔で事務室を出た。

「ええと、確かこの辺に去年のいろいろあったような……」
 と、ファイルボックスが並んでいる本棚を覗く。
 春に前任者と引継ぎをしたときに、教えてもらったはずだった。
「……あ、あった」
 昨年の行事の際に作られたプリント類が入ったボックスを取り出し、自席に戻る。
「ほとんどこのままでいいんじゃないかなあ……」
 昨年作られたらしいプリントを眺めながら、ぼんやりと呟く。
 キャンプには佐奈も参加するつもりだった。

 ……麻野先生も、来るのかな……。

 また、先日のことを思い出して佐奈はひとりで顔を赤らめる。
 それを振り払うように、首を横に振ったところで事務室のドアがノックされて、びくっとしてしまう。
「あ、はいっ」
 返事をすると、ドアが開く。
「麻野ですけど」
 その声にまた佐奈の心臓が高鳴った。
「あ、はいっ……何か……」
「いや、特にこれと言ったものはないんだけど……大丈夫かなと思って」
「え……あ、……はい………」
 佐奈はつい、曖昧な返事をしてしまう。
 なんともないと言えば言えなくもないのだが、あの日からずっと麻野のことばかり考えてしまっていることを思うとなんともないと言い切れるものでもない。
 そして佐奈はそんな小さな嘘もいえない正直な性格だった。
「……嫌じゃなかったならよかった。僕も男だからちょっと警戒されてるのかもしれないけど」
「あ、いえ……そんなことは……すみません……」
 佐奈の返事を聞いて、麻野はくすっと笑う。
「いや、ごめん。僕は全然、気にしないから」
「あ、……はい、……ありがとうございます……あの、……先生」
「はい?」
「あの、……また、……お話ししにいっていいですか……?」
 先日、麻野に触れられたときの感覚が忘れられなかった。
 また触れて欲しいと思っているわけではなく、あのときは恐怖すら感じたはずだったのに、それでも麻野のことが気になって仕方がない。
 佐奈は自分のそんな感情が自分で理解できずにいた。
「もちろん。いつでも待ってるよ」
 麻野はそう答えて微笑んだ。


 その日の夕方、佐奈はカウンセリング室の側で迷っていた。

 ……いつでも待ってるよ、って言ってたけど………。

 カウンセリング室に向かったものの、その扉の前で躊躇してしまう。
 佐奈はもう何度もその廊下を行き来していた。

 ……こんなんじゃ、今までと変わらないじゃない……。

 引っ込み思案な自分の性格が嫌いだった。
 どうにか変えることができたらと思い、この施設を出てアルバイトをしながら高校に通ったが、結局あまり変わることができなかった。
 やはりそれは子どもの頃の経験などが深く関わっているのかもしれない。
 そんなふうに考えていた。
 佐奈は一度深呼吸をして、意を決した表情でカウンセリング室の扉をノックした。
「はい、どうぞ」
 と、麻野の声を聞いてからその扉を開く。
「あの、今大丈夫ですか?」
「ああ、佐奈ちゃん。……どうぞ」
 と麻野は穏やかな微笑みを向け、手でソファに座るよう促した。
 佐奈は指示されるままにソファに腰掛ける。
 すぐに麻野の手が伸びてきて佐奈の頬に触れた。
「あっ……あの…っ……」
 その瞬間、佐奈がさっと下を向いたため、麻野の指先が頬を掠めただけで離れた。
「ああ、ごめん、つい触りたくなるんだよね、佐奈ちゃん」
 と、麻野は肩をすくめて微笑んだ。
「いえ、あの……何から、お話ししたらいいのか、……わからないんですけど……」
 佐奈がさくら園で暮らし始めた頃から、麻野のようなカウンセラーは来ていたけれど、当時は現在よりももっと男性に対して強い恐怖感を持っていたせいで、ほとんど相談もできずにいた。
「そうだな、……じゃあ、僕が気になったところから、聞いてみてもいいかな?」
 恐る恐る顔を上げると、いつもと変わりない麻野の表情に佐奈はほっとする。
「あ、はい…お願いします」
「言いにくいことがあったら、とりあえず無理しなくていいから。……話してくれるほうが本当はありがたいけど」
「はい」
「まあ、リラックスして」
 強張った表情のままの佐奈に、麻野はやや苦笑混じりに微笑んだ。
「あ、……はい……大丈夫です」
「……今の時期、長袖って暑くない? ここ、エアコンないし」
 窓を開けていても、昼間なら室内に入ってくる風は涼しいものではなかった。
「あ、……でも、………」
 佐奈はブラウスの袖をきゅっと握る。
「何か、あるんだね?」
「……ちょっと、……傷があって……あまり人に見せたくないんです……」
 小さい頃も特にやさしくされた記憶もない父親だったが、あるときから急に母親や佐奈に暴力を振るうようになった。
 母には気づかれたくない、母を悲しませたくないとの一心で、佐奈は自分の傷を隠すようになり、半袖やスカートなどの肌を露出する服装をしなくなった。
 子どものそんな様子に母が気がつかないわけもなく、母は佐奈を連れて家を出たのだった。
「傷か……女の子だもんな、気になるよね」
「……はい……」
「……見せてごらん」
 そっと佐奈の手を取って、袖口のボタンを外した。
「あ、……や……だめです…っ……」
 手を引こうとするが、強い力で握られているわけではないのに動かすことができない。
 麻野はゆっくりとした動作で佐奈のブラウスの袖を捲る。
 細い手首の皮膚には、小さな円形の火傷の跡がいくつも残っていた。
 その傷跡を麻野は指先でそっと撫でる。