Man and Woman

clover

04.

「……先生………」
 思うように声を出すことができない。
 心臓の音が鳴り響いて、まるで耳元で脈打っているような錯覚と強い眩暈に襲われる。
 そんな佐奈とは対照的に、麻野は穏やかな表情で佐奈の手首を指先でなぞっていく。
 眩暈に耐えられずに俯いて目を閉じると、佐奈の指に麻野の指が絡まる。

「男に触れられて……こうして手を繋ぐのは、初めて?」
 指を絡めあって手のひらを繋ぎ合わせる。
 緊張で冷たくなった佐奈の手には麻野の体温が高く感じられた。
 麻野の指は女の自分とは違う、骨張った長い指であることが、目を閉じていても感じられる。
「……はい………」
 佐奈は目を閉じたまま消え入りそうな声で答えた。
「どんな感じ?」
 そう聞かれても今は言葉で表現することなどできない。
 ただ、佐奈は首を横に振った。
「……嫌?」
 その言葉に、少しの間をおいてまた首を横に振る。
 不思議と嫌悪感は感じなかった。
 それでも、恐怖感は初めて頬に触れられたときと変わらなかったし、ずっと他人に隠していた傷痕を見られたという羞恥心とで、佐奈の頭の中は何かを考えられる状態ではなかった。
 ふっと微かな笑い声を残して、麻野の手が佐奈から離れた。
「佐奈ちゃんは、来週のキャンプには泊まるの?」
「…あ、……はい……そのつもり、です……」
「じゃあ、その日の夜にまた、ここにおいで」
 その言葉に、はっと顔を上げると、麻野のレンズ越しの瞳は普段となんら変わることなく穏やかに細められている。
「……あの……」
 佐奈が声を出すのと同時に、麻野は椅子から立ち上がり、細く開いていた窓を全開にする。
 カーテンが風に煽られてふわりと窓辺に広がった。
「風が、出てきたね……少し雲が出てる」
 佐奈が発した声は聞こえなかったかのように、空を見上げる。
「雨が落ちてきそうだ。佐奈ちゃん、早めに帰ったほうがいいかもしれない」
 麻野の肩越しに見える夕闇の空は、いつの間にか暗い厚い雲に覆われていた。
「……そう……ですね……そろそろ、……失礼します…すみません、お邪魔しました」
「邪魔なんかじゃないよ。……さっき言ったこと、覚えておいて」
 麻野の声に心臓がどくんと跳ね上がる。
「……失礼します」
 返事をすることができずに、佐奈はそのままぺこりと会釈をしてカウンセリング室をあとにする。
 その紅潮した頬のあたりで揺れる黒髪を、麻野は目を細めて眺めていた。



――その日の夜にまた、ここにおいで。

 麻野のその言葉が、帰り道の間、佐奈の頭の中で何度も繰り替えされていた。
 他人に今の自分を見られてはいけないような気がして、急いでアパートのドアを開け、後ろ手で鍵をかける。
 ドアにもたれかかって長いため息をついた。
 頬に触れるとまだ熱い。逆に指先はまだ冷えたままだった。
 背中をドアに預けたまま、ずるずると尻餅をつくようにへたり込む。
 自宅までやっとの思いで自転車を漕いで帰ってきたが、もう足に力が入らなかった。

 ……わたし……どうしちゃったの……?

 体中の力がすっかり抜けてしまったように玄関から動くことができない。
 佐奈は熱い頬を両手で包んだまま、ぼんやりと座り込んでいた。
 ふと、麻野の穏やかな視線を思い出す。
 そして、麻野の長い指が自分の指に絡められたその感触がまだ残る自分の指を、頬から少し離して見つめた。
 どうしてこうなったのか、何が嫌なのか嫌ではないのか、自分でもわからない。

 ……麻野先生の手……暖かかったな……。

 混乱した頭の片隅で、そんなことが印象に残っていた。




 一週間後、佐奈はまだ自分の気持ちを決めかねていた。
「佐奈ちゃーん」
 事務室に向かって外から子どもたちに声をかけられる。
「まだお仕事? もうテント張ってるよー」
 立ち上がって窓辺に向かうと、すぐ側まで女の子が3人、走ってきた。
 その向こう側では子どもたちがテントを張ったり、食事用のバーベキューコンロを準備したりと、普段以上に賑やかだった。
「もう準備始めてるんだ。 誰か先生ついてるの?」
「麻野先生が手伝ってくれてるよ」
 その言葉にドキンと心臓が音を立てるが、佐奈はできるだけ平静を装った。
 女の子たちの背中越しに、子どもたちに混じって長身の男性がテントを張る作業をしているのが見える。
 遠目から見ても、楽しそうに作業しているのがよくわかった。
「あ、そうなんだ……わたしも手伝ったほうがいいかな。ちょっと、待ってて。今行くね」
「早く早く!」
「はーい」
 まだ夕方というには早すぎる時間。
 女の子たちが走り去った方に目を向けると、強い日差しが照りつけていた。
 壁のフックに掛けてあった帽子を取り出して被る。

 ――夜にまた、ここにおいで。

 玄関までの廊下を歩きながら、先日の麻野の言葉を思い返す。
 普段と変わらない静かで穏やかな話し方だったが、断ることができないような威圧感があった。
 玄関を出て、まだ高い太陽を手を翳して見上げる。
 事務室の窓から見えた麻野の姿を思い描く。
 子どもたちに混じって明るい笑顔を見せていた。

 ……信頼できない人ではない、よね。

 園長やシスターたちは皆、麻野のことを信頼し、また、さくら園の出身である彼のことを誇りに思っているようだった。
 実際、複雑な家庭環境であることが原因で養護施設に入ってくる子どもたちにとって、大学に進学することは受験勉強に集中する環境という面でも経済的な面でも難しいものだったし、それゆえに人一倍の努力が必要だった。
 そのようにして有名大学に進学した麻野のことは、佐奈もよく園長たちから聞いていたし、そんな先輩がいるということをうれしく思っていた。

 ……だからきっと、麻野先生なりの考えがあってのこと……きっと、大丈夫。

 自分に言い聞かせるようにして深呼吸をしてから、子どもたちが待つ中庭に向かった。



「佐奈ちゃーん、こっちこっち!」
 先ほど佐奈を呼びに来た女の子が声をかける。
 テントはもう出来上がったらしく、園長も混ざってバーベキューコンロに火を入れているところだった。
「テント、麻野先生がほとんどやってくれたよー」
「そうなんだ」
「昔も同じことしてたしね。懐かしくてつい手を出してしまったよ」
 子どもたちに対する麻野の笑顔がひどく眩しく感じられて、佐奈はつい目を逸らしてしまう。
「あ、じゃあわたし、こっちの野菜洗って用意してきます。……舞ちゃん、手伝ってくれる?」
 高学年の女の子に声をかけて、佐奈はその場を離れた。
 子どもたちと雑談をしながら佐奈の背中を見送る麻野の視線には、気がつかなかった。


 食事も終り、日が暮れてから花火を始めた。
「火には気をつけるのよ」
 と言う園長に続いて、
「そうそう、園の建物ももうボロだからねー。すぐに燃えちゃうから気をつけないと」
 と畳み掛ける麻野の言葉に子どもたちの笑い声が広がる。
「こっちのろうそくもつけたよ。順番にね」
 佐奈はろうそくに火をつけ、小皿のうえに立てた。

 きゃあきゃあと声を上げながら花火をする子どもたちの様子を、少し後ろで見ていた佐奈の側に、いつの間にか麻野が来ていた。
「おつかれさま」
「あ、…いえ、こういうのも楽しくて好きですから……」
 二人きりではないとはいえ、佐奈は少し緊張して返事をする。
 今は子どもたちは花火に夢中だし、園長やシスターたちも子どもたちについているため、二人のことは誰の目にも入っていないようだった。
「佐奈ちゃんは子どもが好きなんだね」
 そう言って笑う表情は、子どもたちに対するものとなんら変わらないもので、それがかえって佐奈をうろたえさせた。
 花火の光に照らされた自分の顔を見られるのを避けるように俯く。
「はい、……麻野先生も、そうですか?」
 この施設での仕事のほかにも、小学校などでスクールカウンセラーを受け持っているという話を少し聞いた。
「うん、だから今の仕事を選んだんだ」
「そうなんですか……」
 二人で話をしている間に、園長が子どもたちの輪の中で噴き上がるタイプの花火に火をつける。
 その所作がぎこちなくて、心配するような声が子どもたちの中から上がっていた。
 それでもどうにか火がついて、慌てたようにその場から離れる園長の姿が目に入った。
「こういうところにいる子はそれなりにみんないろいろと抱えてるしね。……少しでも軽くしてあげられたらと思うんだ。なかなか難しいけどね」
 それは、自分のことも含まれているのだろうか。
 ぼんやりと子どもたちの間から見える花火を眺めながら佐奈はそう思った。
「そう、ですね……」
「佐奈ちゃん」
「……はい?」
「あとで、……みんなが寝てからね」
 どくん。
 佐奈の心臓が音を立てる。
 どう返事をしていいのかわからずにいるうちに、麻野は佐奈の側から離れて子どもたちの輪の中に入っていった。



 女の子たちとともに入っていたテントから、佐奈はひとりで外に出る。
 ひとつひとつのテントがそう大きいものではないため、四棟張ったテントで男女別れて入ったが、全ての子どもたちが寝静まったようだった。
 園長やシスターたちはもうすでに施設の自室に引き払っている。
 何気なく空を見上げると、中空に白い半月が浮かんでいた。
 その明かりだけを頼りに、施設の裏口の鍵を開け、中に入る。
 テントを張っている場所からはカウンセリング室は見えないが、裏口から入るときにカーテンの隙間から小さな明かりが漏れているのが見えた。

 佐奈は真っ直ぐにカウンセリング室まで歩き、麻野が待っているであろうその部屋のドアをノックした。