Man and Woman

clover

05.

 扉の向こうからややくぐもった「どうぞ」という声を聞いてから、ドアノブを回した。
 微かに軋んだ音を立てて扉が開いたその先に、机の照明ひとつをつけて椅子に座っている麻野がいた。
「……待っていたよ」
 椅子の背に凭れて、寛いだ姿勢のまま佐奈に視線を移す。
「あの、………」
 もう深夜といってもいい時間に、隠れるようにして男性とふたりきりになるということは、どういうことなのか。
 佐奈には経験ももちろん、考えたことすらない事態だった。
 ただ、少なくとも今夜はもう断って眠った方がいい。そう思っていたが、どう切り出せばいいのかわからない。
「みんな寝るまで待ってたの?」
「あ、はい……」
「仕事が残ってるとか言って出てくればよかったのに」
 そう言って少し肩をすくめて苦笑する。
「あ、……そうですね……」
「佐奈ちゃんはマジメなんだなあ」
「そう……なんでしょうか……」
 部屋に入ってきたそのまま、ドアの側に立ち尽くしたままの佐奈に向かって
「……こっちに、おいで」
 と、微笑みかける。
 その表情は先ほどの子どもたちに対する笑顔と変わらないように見えて、佐奈は拒むべき理由が見つからずに、麻野に言われるがままゆっくりとした足取りで麻野の側に近づいた。

「……よく来たね」
 と、先日と同じように佐奈の頬に指を伸ばす。
「あの…っ……やっぱり、こういうことは……」
 さっと俯いて体を引いた。
 その動きにあわせて、麻野は佐奈の肩をやさしく掴み、軽く押すようにして後ろのソファに座らせる。
 そして麻野自身は佐奈の隣に腰を下ろした。
 軽く触れ合った佐奈の膝にそっと手を置く。
「嫌?」
 佐奈の顔を覗き込むようにするが、佐奈は目を合わせることができない。
「あの、そう……じゃないんですけど……でも……」
「嫌なら、大きな声を出せばいい」
 と、佐奈の手首を掴む。
 そこは先日麻野に触れられた部分だった。
 佐奈は体温がかっと上がる感覚に襲われて、思わず身体に力が入る。
「…っ……」
 身体が震え出し、それを少しでも抑えるために奥歯を噛み締めた。
「……大きな声で叫べば、園長先生やシスターが慌てて出てくるよ。どう見ても僕が君に無理を言って迫っているように見えるだろうから、きっと君は皆に助けてもらえるだろう」
 佐奈とは反対に、麻野は普段と変わらない落ち着いた口調で話しながら、佐奈の手首を押さえたまま、反対の手で頬を指先でゆっくりと撫でた。
「………」
 ……でも。
「でも、…余計な心配をさせたくない。……そうだろう?」
 はっと麻野の顔を見上げる。
 普段どおりの微笑みの中に幾分か冷淡な色を浮かべていた。
「君の性格は、もうだいたいわかってるよ」
 佐奈がここに入所してから中学生までの間に何度か行ったカウンセリングの資料は今、麻野の手元にある。
 子どもの頃からの性格は簡単に変わるものではなかった。
「……先生………」
 麻野が一体何をしようとしているのか佐奈には想像もつかなかったが、麻野が見せたやや冷淡な目つきに怯えた表情を浮かべた。
「何も無理やりにレイプするなんて趣味は無いし、そんなつもりもないよ」
「……じゃあ……」
 どうして、こんなことを? と、言いかけた佐奈の唇が麻野の指先で止められた。
「君が好きなんだ」
 麻野の表情も口調も、先ほどまでと何も変わらない。
 レンズ越しに見える瞳からは先ほどの冷淡さは消え、柔和なまなざしで佐奈を見つめている。
 ただ、出てきた言葉は佐奈の想像もしていなかった言葉だった。
「……え………」
 麻野の言葉の意味していることが、佐奈には理解できなかった。
 頭の中が混乱してしまって、何も考えられない。
「愛している」
「……そんな……」
 どう返事をするべきなのか、考えることができない。
 自分が麻野に対してどんな感情を抱いているのかさえわからない。
 知り合ってからまだ一ヶ月にも満たないのに、そのような感情を持たれていることに気がつかなかったし、俄かには信じられなかった。
「大切にしたいんだ。……だから」
 佐奈の唇に触れていた指を顎に沿って滑らせて、頬を愛撫する。
 顔を近づけて佐奈の耳元に唇を寄せた。
 佐奈は思わず首を竦めて目を閉じる。
 その様子を見てくすっと笑った麻野の熱い吐息が佐奈の耳を擽った。
「……ゆっくり、僕に慣れてもらうことにするよ」
 耳元で囁く麻野の言葉がどのような意味を持っているのか、佐奈には想像することもできなかった。


 高校のときも、同級生の女の子たちの恋愛の話には、なんとなく笑ってやり過ごす程度だった。
 全く興味が無いと言うと嘘になるが、それでも今まで男性に対して『恋』と呼べるような感情を抱くまでに至ったことはなかった。
 今後も男性と深い関わりを持つということは一生ないかもしれないとまで思っていた。
 それが、目の前の男が自分のことを愛していると言い、頬や髪をゆっくりと愛撫している。
 佐奈にとって考えてみたこともないことだった。

「……でも……わたし…っ……」
 麻野は佐奈の髪を指に絡めながら、耳に沿って指先を滑らせる。
「……嫌では、ないんだろう?」
 湿った吐息が首筋を撫でていく。
 少しでも動くと麻野の唇が肌に触れてしまいそうで、佐奈は動くこともできずにただ体を硬くするだけだった。
「でも…っ……」
「……僕が怖い?」
 その問いに一瞬間をおいて、こくんと小さく頷く。
 麻野はくすくすと小さな笑い声を立てながら、佐奈の肩に額を乗せ、髪に触れていた手でゆっくりと背中を撫でる。
「…っ……」
 ぞくぞくと肌が粟立つほどの恐怖を感じ、喉が引きつって悲鳴を上げることもできない。
 今佐奈にできることは、ただ奥歯を噛み締めて身体の震えに耐えることだけだった。
「そんなに怯えないで……怖がらせたいわけじゃない」
 両腕を佐奈の背中に回し、包み込むように抱きしめる。
「言っただろう? 君を大切にしたいんだ」
 麻野の微かな汗の匂いが佐奈の鼻腔を擽った。
 自分の身体を包み込む腕の強さとともに、麻野が『男』であることを強く意識させられる。
「君が僕を受け入れてくれるようになるまで……ゆっくりでいいんだ……時間は、いくらでもある」
 そっと体を離して、佐奈の肩を手のひらで包み込むように掴む。
 至近距離で佐奈の瞳を覗き込むから、佐奈も麻野と目を合わせざるを得ない。
 机の照明ひとつのほの暗い部屋の中で、男と二人きりでこうして向かい合って見つめ合っている今の状況が、だんだんと現実離れしているような錯覚に陥る。
 そうなってようやく、頭の中が少しだけ冷静さを取り戻してきた。
「……どうして……わたしを……?」
 喉から搾り出すようにかすれた声で麻野に問う。
「……君が綺麗だったからね」
「……そんなこと……」
「君はずっと、綺麗だよ。……ずっと、これからもね」
 と、眼鏡の奥の瞳が細められた。
「……また僕と、ふたりで逢ってもらえるかな?」
 どう返事をすべきか、判断ができなかった。
 下手に断って職場の人間関係がぎくしゃくするのもいいことだとは思わない。
 園長やシスターたちに迷惑をかけることだけは避けたかった。
 だからと言って、麻野の自分に対する感情に応えることも難しい。
 佐奈の瞳が揺れるのを、麻野は見逃さなかった。
「仕事の後、僕がいる時にここに寄ってもらえるだけでいいんだ。今までと変わらないよ。君と話をしたいんだ」
「あ……あの……じゃあ……それだけ、なら……」
「よかった」
 そう言って安心したような表情で微笑む麻野を見て、自分の出した答えは間違いではなかったのだろうと思った。



 できるだけ音を立てないようにして、テントに戻った。
「ん……佐奈ちゃん?」
 隣で寝ていた女の子がうっすらと目を覚ました。
「あ、ごめん……起こしちゃったね」
「どうしたの?」
 そう聞かれて、咄嗟に麻野に言われた言葉を思い出した。
「あ、……忘れてたお仕事があって……」
「そうなんだ……」
 まだ半分寝ているような顔で目を擦っている。
「うん、……おやすみ」
「おやすみなさい……」
 女の子の吐息はすぐに寝息に変わった。
 それを確かめるように女の子の顔を見てから、佐奈も寝床に横になる。

 ……嘘をついた。……これからも、みんなに嘘をつくことになるのかな。

 ぼんやりと麻野とのやり取りを思い出す。
 極度に緊張してしまっていたせいで、ぼんやりとしか思い出せないが、麻野は確かに自分を「愛している」と言った。
 その一言を思い出すだけで、身体が熱くなる。

 ……わたしは、麻野先生のことどう思ってるんだろう……。

 『恋』という感情もよくわからないのに、麻野の感情に応えることができるわけがない。
 そう思うのに断りきれない、その理由も自分でわからない。
 ふと、佐奈と同じさくら園で一緒に育った親友の顔が浮かんだ。
 自分より少し後、母を亡くした頃にここに入所した同い年の女の子がいた。
 高校は別々の学校に進学したが、割合頻繁に連絡を取り合う、佐奈にとっては数少ない友人だった。

 ……(こずえ)だったら、どうするかな……。

 今自分に起こったことを全て話すことはできないけれど、少なくとも自分よりはずっと恋愛経験の豊富な彼女と話すことで、自分の感情を知る手がかりを掴めるかもしれない。
 そう思いながら寝返りを打つ。

 その夜は明け方まで寝付くことができなかった。