Man and Woman

clover

06.

 次の日、休日だった佐奈は午前中のうちに自宅に戻った。
 ほとんど眠れなかったのと、八月末とはいってもまだ残る茹だるような暑さのせいで、どうも体調がすぐれない。
 部屋に入るなりベッドに倒れこむようにして横たわった。
 それでも、昨夜寝床の中で思い浮かんだ友人のことを考え、高校卒業時に同級生に半ば無理やりに持たされた携帯を鞄から取り出す。
「今の時間なら、大丈夫かな……」
 何度目かの呼び出し音のあと、『もしもし』とやや不機嫌そうな声が聞こえた。
「あ、わたし……佐奈だけど、梢?」
『あー……うん。おはよう』
 もう昼と言ってもいいくらいの時間だ。
「寝てた? ごめんね」
『うん。どうしたの?』
「えっと、たまに、会いたいなとか思って……ほら、高校卒業したときから会ってないし」
『そうだね……いいよ。いつにする? 今日でもいいよ。バイトは夜からだから』
「あ、じゃあ、そうしてもいい? 時間は梢に合わせるよ」
『うーん、じゃあ二時くらいに。駅前のカフェでケーキ食べようよ』
「わかった。じゃあ、あとでね」
『じゃーねー』
 向こうが切るのを待ってから、電話を切った。


 約束の時間には、佐奈のほうが先に着いた。
 梢と待ち合わせをしたときはたいていそうだった。
「佐奈ー」
 手を振って現れた梢を見て、佐奈は目をまん丸にする。
「あ、……えー、誰かと思った」
 高校卒業時に、梢がさくら園から出る引越しの手伝いをして以来だった。
 数ヶ月前のその頃と現在の梢とでは、見た目にかなりの変化があった。
 ストレートの黒髪だったロングヘアは、明るい色に染められ、大きめのカールが施されている。
 服装ももともと佐奈に比べたら派手なものを好む方ではあったが、黒地に金色のプリント柄が入ったチューブトップにショートパンツという服装は、佐奈にはどう考えてもできそうにないものだった。
「だってもう高校生じゃないんだし。佐奈は相変わらずねー」
 と、明るく笑う顔だけは、昔と変わらないように見えて、佐奈は少し安心した。


 そのカフェは駅前のテナントビルの三階にある、フルーツをふんだんに使ったデザートが人気の店だった。
 壁一面が硝子張りになっていて、白を基調とした店内には自然光が差し込み、明るく清潔な雰囲気になっている。
 土曜の午後の現在は、女性客やカップルで賑わっていたが、ふたりとちょうど入れ代わるように出た客のおかげで、窓際の席に座ることができた。

「どうしたのー、急に」
 席に着いてアイスティーと日替わりのデザート盛り合わせを注文してから、梢は佐奈に笑顔を向けた。
「何でもないんだけど……なんとなく。思い出したら会いたいなーとか思って」
「あたしも佐奈に会いたいなーとは思ってたからちょうどよかったけどね。あ、そうだ。あたし住所変わったから」
「え、そうなの?」
「うん、今彼氏と一緒に住んでるんだ」
 何気ないことのように言う梢に、佐奈はまた目を丸くする。
「ええっ、えっと、……同棲、してるってこと?」
「うん、最初に入ったアパートよりずっと広くてキレイで快適ー」
「……えっと、それって、高校のときに付き合ってた人? ……卒業の頃に、いたよね?」
「えーその子とはもうとっくに別れたよー。今は、社会人の人ー。ほら」
 と、携帯の待ち受け画面を佐奈の目の前に出した。
 そこには、梢とやや年上と思われる男性が頬を寄せるようにして写っていた。
「はあ……そうなんだ……」
 自分とはまるで別世界の話のように感じて、ため息をついた。
「佐奈はなんにもないのー? 彼氏とか。相変わらず、男ニガテなの?」
「え、……うん……、なんかね。苦手…だなあ……」
 そう言いながら、頭の中では麻野のことを思い出す。
「あたしも昔はそうだったけど、今は逆にいないほうが不安になっちゃうなー」
 と、テーブルに運ばれてきたアイスティーをストローでかき回す。
 グラスに氷が当たる涼やかな音が耳に響いた。


 五年生の頃、さくら園に梢が預けられてきた。
 母親の再婚相手に暴力を受け、母親に相談できないまま家にも帰れずに、夜の街で見知らぬ男性に声をかけられ、連れまわされた。
 そのうちに補導員に見つかり、それから児童相談所を通してさくら園に入所したことを、佐奈は中学生になったころに梢から聞いた。
 普段は明るくさばさばした性格の梢だったが、思いがけない話を聞いて驚いた記憶があった。


「どうして、男の人大丈夫になったの?」
 小中学生の頃は佐奈と同じく男性を怖がる様子もあったのだが、高校生になった頃から梢には恋人がいない時期というのがなかった。
 もともと美人な上に明るい性格だったから、男子生徒に人気があったせいもあるだろうが、あまりの奔放ぶりに園長が大変に困惑して、その頃は園から離れていた佐奈にわざわざ連絡してきたこともあった。
「どうしてだろうー。よくわかんないけど……でも、好意を持ってくれてるってわかってたら、……大事にしてくれてるなーって思える人だったら、わりと何でも平気になったかなぁ」
 昨夜、麻野に言われた言葉を思い出す。
 麻野は佐奈に「愛している」と言い、「大切にしたい」と言った。
 その言葉を信じて、麻野の全て受け入れることは、急には難しいことではあるが、いつかはできることなのかもしれない。
 ぼんやりとそう考えた。
「そうなんだー……」
「あとは、セックスかなあ」
 佐奈にとっては頭の中で考えるだけでも恥ずかしくなるような単語を、いとも簡単に口にする梢に驚く。
「や、やだ梢ってば」
 慌てた様子の佐奈を見て、梢はあははと軽い笑い声を立ててから、アイスティーを一口飲んだ。
「子どもの頃のがあるからさー、最初は怖かったけど」
「あ……うん」
「でもなんか、大好きな男とセックスしてるときって、生きてるなーって感じがするんだよね」
「へえ……」
 全く経験のない佐奈にとっては、こんな返事しかできなかった。
「佐奈もしてみればわかるよ、きっと」
 と言う梢の言葉に大げさなくらい首を振る。
「わ、わたしはそんなこと、無理だよ……それに、……結婚する前にって……あまりよくないと、思うし……」
 と、俯きながら小さな声でもごもごという佐奈に、梢はまた明るい笑い声を立てる。
「そんなこと考える人、今どきあんまりいないと思うけど」
「で、でもだって……」
「そんなこと言ってたら彼氏できないよー」
 その言葉に一瞬麻野の顔が浮かんだ。
「い、いいよ、彼氏なんて……」
「好きな人とか、いないの? まあ、あそこで働いてたら出会いなんかもないよねー」
「あ、うん、…そう、それもあるし……」

 まだ、麻野のことは自分でもどう思っているのか、よくわからなかった。
 嫌悪感は初めから感じられなかった。
 それは昨夜のことがあっても変わらない。
 麻野ははじめから、佐奈を脅すような言葉は使わなかったし、そんな態度も見せなかった。
 しかし、言われたことには従わなければならないような気持ちにさせられる、畏怖とも言えるような感覚があった。

「あ、みんな元気? 先生たち」
「うん、元気にしてるよ。梢もたまに遊びにおいでよ」
「うーん、まあねえ。なんかあそこの人たちっていい人過ぎて、逆にちょっと疲れちゃうんだよね」
 と、肩を竦めて苦笑する。
 佐奈も、園の職員たちが今の梢を見たら相当に驚くだろうと思い、その様子を想像してくすくすと笑った。
「梢、見た目派手になったからみんなびっくりするよ」
「オシャレって言ってくれるー?」
 梢は、失礼しちゃう、と言ってまた笑い声を立てた。
 ふと、梢の表情が変わる。
「佐奈は、大丈夫なんだね」
「え?」
「ひとりでも、がんばってて、えらいよね」
「何言ってるのー普通でしょ」
「あたしは、ほら、もうずっと親なんか会ってないし会おうとも思わないけど、やっぱり誰かがいないと寂しくてダメだわ」
 子どもの頃、梢はどうしてか、ひとりきりで過ごすことを極端に嫌がった。
 今もそれは変わってないのかもしれない。
「梢……」
「そんなだからさ、一人暮らし続かなくて。彼氏の部屋に転がり込んだようなもんだけど、今はわりと落ち着けてるよ」
「……よかった」
「うん」
 そう返事をして笑う梢の表情は穏やかな笑顔だった。


 アイスティーをもう一杯ずつ追加し、そのグラスが空になった頃、
「あたし六時からバイトだから、そろそろ行くね」
 と、梢が切り出した。
「あ、うん。……あれ、ご飯大丈夫?」
 腕時計を見ると、五時を回っていた。
「うん、賄い出るからいいの。いつも早めに行って食べてから仕事なんだ。……今日は久しぶりに佐奈と会えて楽しかった」
 と、立ち上がる。
 佐奈も一緒に立ち上がってバッグを手に取った。
「わたしも。急に呼び出してごめんね」
「ううん、全然。また誘って」
「うん、ありがとう」
 一緒に会計を済ませ、並んでビルを出た。
「またね、佐奈」
「うん、またね」
 ひらひらと手を振って繁華街の方へ歩いていく梢の後姿を見送ったあと、自宅方面へのバスに乗るためにバスターミナルに向かった。


 ……男の人を好きになるって、どんな感じなんだろう。

 昨夜からずっと考えているが、佐奈に出せる答えはなかった。
 空を見上げて、麻野のことを思い浮かべる。
 恋愛の順序などは、小説や映画、ドラマなどで見聞きしていて、ある程度は知ってはいるし、そこで描かれるような恋愛に憧れることもないことはない。
 しかしどこか自分には関係のないことと考えていたせいで、実際麻野に好意を寄せられていると知っても、まだ自分のこととは考えられなかった。

 ……でも、わたしのことを好きだって言ってくれた人……はじめて……。

 次に麻野と会うのは、三日後。
 そのことをぼんやりと思い浮かべながら、夕暮れの空を眺めていた。