Man and Woman

clover

07.

 その時、麻野はひとりでカウンセリング室にいた。
 机に備え付けられた椅子ではなく、ソファに座って、午前中に図書館で借りてきた専門書をパラパラと捲る。

 さくら園での勤務時間は午後から夜の九時までとなっている。
 学校から帰ってきた子どもたちがカウンセリング室に立ち寄っては、学校のことや園での生活のことを話していく。
 その会話の中で、その子が抱えている悩みや問題を探っていくのが、麻野の仕事だった。

 勤務時間中、確実にカウンセリング室に人が来ない時間が30分ほどある。
 子どもたちの夕食の時間帯だった。
 その時間には、園長たち職員も子どもたちとともに夕食を取る為、職員が立ち寄ることもない。
 また、決められた食事の時間内は食堂から出てはいけないという決まりがある為、子どもたちが来ることもない。

 そして、そのことは佐奈も知っているはずだった。
 先ほど廊下に出た際に、事務室の明かりがまだ点いているのを見かけた。
 佐奈の退勤時間はもう一時間も過ぎている。

 ……きっと、彼女はここに来る。

 麻野は机の前の壁を見上げた。
 視線の先には、褪せた緑色の四葉のクローバーがフレームに納まっている。
 それを見て、ふっと口元が緩んだ。
「……運命って、あるものなんだな……」
 と、呟いた時、コンコンと控えめなノックの音が部屋に響いた。




「どうぞ」
 佐奈がカウンセリング室のドアを開けると、麻野はひとりでソファに腰を下ろしていた。
「あの、……コーヒー、淹れてきたんですけど……」
 何も用事を作らずにこの部屋に来ることは躊躇われたため、口実としてコーヒーを淹れて持ってきたのだった。
「どうもありがとう。机に、置いてもらえるかな」
「あ、はい」
 ドアを閉めてから、ゆっくりとした足取りで机に向かい、コーヒーを入れたマグカップを置いた。
「……そろそろ来てくれる頃かなと思っていたんだ」
 佐奈の背中に向かって麻野が声をかける。
「あ、……お仕事の邪魔になっちゃ申し訳ないですし……今の時間なら、誰もいないかなと思って……」
 カップを載せていた盆を両手で持ったまま、俯き加減になる佐奈の右手をそっと取って握る。
「うれしいよ」
 麻野の言葉に佐奈は顔を真っ赤にしてさらに俯いた。
「あ、あの……先生……」
「何?」
「……わたし、……あのあと、色々考えたんです」
「うん」
 じっと見つめてくる麻野の瞳を見返すことはできなかった。
 俯いたままで、この三日間で考えたことを麻野に伝える。
「…今まで、……男の人を好きになるとか、経験なくて……やっぱりまだ、自分ではよくわからないんです……ごめんなさい……」
「それは、仕方がないよ」
 俯き加減の佐奈の目に、自分の手を握る麻野の手が見えていた。
 男らしい長い指が自分の手を握りながら、親指でそっと手の甲を撫でている。
 麻野の指で包まれている手が自分の手ではないような、誰か別の女の手のように見えた。
「でも、先生は……ゆっくりでいいって言ってくださったから……ゆっくりでもいいのかなって……」
「うん、焦るような事はないよ」
「……あの、だから……」
「これからも、……これからは、もっと、僕と会って貰える……ということかな?」
「あ……はい……よろしくお願いします」
 ふと顔を上げた時、麻野と目が合った。
 穏やかに微笑んで佐奈を見つめる瞳に、気恥ずかしくなってまた俯く。
「こっちに座って」
 と、握られた手を引かれ、佐奈は麻野のすぐ隣に腰を下ろした。

「あ、あの……」
「なに?」
「……先生は、どうしてわたしを……」
 知り合ってまだひと月にも満たないし、好意を寄せられるようになる心当たりもなかった。
「こんなかわいい子がここで働いているなんて思ってもみなかったから、驚いたのもあったし」
「そ、そんな……わたし全然、かわいくないですよ……」
「そういう、……こういう言い方は失礼かもしれないけど、今どきなかなかいないような純情っぽいところが、かわいいなあと思ってね」
「……やっぱり、変でしょうか……高校のときも、よく言われました……」
「いや、変じゃないよ。僕は君みたいな子もとても素敵だと思ってるよ」
「や……変なこと言わないでください……」
 真っ赤な顔をして俯く佐奈を見て、くすくすと笑う。
「……少し、触れても?」
 麻野の言葉にはっと顔を上げると、その頬に指先が触れた。
「……熱くなってる」
 くすっと笑われて、佐奈は思わず下を向いてしまう。

 この部屋に入って来てからずっと、緊張で指先が冷たくなったままだった。
「目を閉じて。……深呼吸してごらん」
 言われたとおりに目を閉じて、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「少し、緊張が解れた?」
「……はい……」
 佐奈の首の後ろに手を回し、そっと引き寄せる。
 反対の手は佐奈の腰に添えるようにして抱きしめた。
「……先生……」
 腰に回った手が、ゆっくりと背骨をなぞるように上下する。
 思わず背中を反らすと、自然と麻野の肩に寄り添うようになってしまう。
 無意識に出た手が麻野の胸元に触れて、自分とは違う体つきに驚き、慌てて手を引っ込めた。
 その間にも、麻野の指先は脇腹を滑って胸の下に触れられた。
 コットンのチュニックブラウス越しに、麻野の温もりが伝わる。
「…あ……」
 口元から漏れた自分の声が、普段とはまるで違う、甘く鼻にかかったため息のように聞こえて、思わず手で口元を押さえた。
「……意外と、感じやすいのかな」
 先日と同じように、佐奈の肩に額を乗せるようにして、くすくすと笑い声を立てる。
「かんじ……やすい……?」
「こうやって、男に触れられるのが気持ちいいと感じることだよ」
「そ、そんなこと……」
 そう言った瞬間、するっと麻野の手が上にあがり、佐奈の胸の膨らみを包み込むように触れた。
「っ……!」
 突然のことに息を呑むしかできなかった。
 麻野は顔を上げて、佐奈の表情を覗き込むように額を合わせる。
「……けっこう、着やせするタイプなんだね」
 と、やんわりと指を動かす。
「あ……!」
 今まで感じたことの無い感覚に戸惑いながらも、無意識に声が出てしまう。
「そんなかわいい声出すんだ」
「ちが……」
 胸に触れていた手がすっと離れて、佐奈の頬に触れた。
「……どうして……」
 今まで誰にも触れられたことのない部分であり、また、簡単に他人に触れさせるような部分でもない。
 怒りや羞恥よりも驚きのほうが大きかった。
「好きな女に触れたいと思うのは、男にとっては自然なことだよ」
「でも…っ……」
 麻野の額が離れる。
「これから、教えてあげるよ」
 指先が佐奈の顎を一撫でして離れた。
「ゆっくりと言ってしまったからね。今日はこの辺まで」
 と、微笑む表情は普段と何も変わらなくて、佐奈はかえって狼狽してしまう。
「そろそろ、食事の時間が終わる頃だ。……なかなか、落ち着かないね」
「あ……わたし、失礼します……」
「また、次のときに」
 その言葉に、どくんと心臓が跳ね上がった。
「し、失礼しますっ」
 ドアを閉めて駆け足で事務室に戻った。

 そのまま、動きを止めることなくロッカーから私物を取り出し、事務室を出て鍵をかける。
 早足で玄関を出て、自転車に乗って自宅に急いだ。
 火照った頬に当たる風が冷たく感じる。
 それだけ今の佐奈の頬が熱くなっているということだった。

 ……こんな顔、誰にも見せられない……。

 服越しとはいえ、胸を触られたこと。
 『恋人』という自覚もないのに、身体に触れられるなんて思ってもいなかった。
 ふと目の前が霞んで、ブラウスの袖口で拭う。

 ……どうして、こんなことになるんだろう。

 そう考えながらも、『また、次のときに』と言った麻野の声が頭の中で響く。
 逢いに行ってはいけないのかもしれない。
 それでも、『愛している』という言葉を思うと、断りきる自信はなかった。

 『愛してる』なんて言われたの、はじめてだから……。

 好きな異性に触れたいとか抱き合いたいとか。
 人間にそういう感情があることは佐奈も知識としては知っていたし、先日梢からも聞いたばかりだった。
 『大好きな男とセックスしてるときって、生きてるなーって感じがするんだよね』という梢の言葉を思い出す。

 麻野に身体を触られた時、自分はどうだっただろう。
 心臓が高鳴って体が強張って、どうすることもできなかった。
 それが、『生きている』実感とはとても思えなかった。

 ……でも。

 麻野の手が胸の下に触れたときに感じた温もりと、そのときの自分の声を思い出す。

 ……『気持ちいい』と、感じてしまったということ……?

 あのときの頭の中では、僅かな恐怖と羞恥によって緊張し、混乱していたせいで、まだほんの三十分も経っていないような時間なのに、記憶に霞がかかったような気分がする。
 自分の感覚や感情が何一つわからないまま、佐奈は自転車を走らせた。