Man and Woman

clover

08.

 もう何度、ため息をついているだろう。
 ふと、佐奈は壁の時計を見上げた。
 まだ午後そう遅くない時間。
 それでも、今日やるべき仕事はまだ一向に進んでいなかった。
 今週中に作ってしまわなければならない書類を作成するためにノートパソコンを開いているものの、手が止まったままぼんやりとしてしまう。
 そんな自分にうんざりし、またため息が出る。
 一日中その繰り返しだった。

 頭の中にあるのは、麻野とのことしかない。
 このまま付き合ってしまっていいのだろうか、という疑念はある。
 しかし断れるものなら、もうずっと前に断ってしまっているはずだった。
 断りきれないのは、ただ自分の性格のせいだ、と佐奈は考える。

 子どもの頃から、……今思えば、それはやはり家庭環境のせいだったのではないかと佐奈は考えているが、『他人に嫌われる』ということを極度に恐れる面が、佐奈にはあった。
 だから、学校でも頼まれたことは全て断ることなくやっていたし、また、そうしなければならないと思っていた。
 頼まれたことを断るという選択肢は初めから考えていなかった。

 麻野との付き合いにしても、同じことだった。
 佐奈にはまだ、麻野に対しての恋愛感情は持っていなかった。
 それでも自分に好意を持ってくれている、と思うと、麻野のその気持ちを無下にすることなどできない。
 できる範囲で応えることができれば、と考えていた。

 ……麻野先生は、やさしいから……。

 荒っぽい言葉も態度も、一度も見せたことがない。
 園長やシスターたちとの会話からも、そんな性格は彼の子どもの頃から変わりないものだということがうかがい知れた。
 恋人として付き合うには、きっと申し分のない男性であるだろう。
 自分は、何が不満なんだろう。
 佐奈はまた、ため息をついて、首を振る。
 ずっと、同じことばかり考えている。

「佐奈ちゃん?」
「きゃ……」
 突然聞こえた声に、小さな悲鳴を上げた。
 開いたドアの側に、園長が心配そうな顔をして立っている。
「何度もノックしたんだけど……いないのかと思ったわ」
「あ、す、すいません……」
「なんだか、ぼんやりしてたみたいだけど?」
「あ、ちょっと、…考え事をしちゃって……」
「いえ、体調が悪いとかじゃないならいいのよ」
「すいません……」
「ちょっとこれから出かけるから、それを伝えておこうと思って。夕方には戻るわ」
「あ、はい、わかりました。」
「…何か、悩み事があるのなら、いつでも相談に乗るわよ。私でもいいし、……麻野君も、相談事のプロだし」
 何気なく出された名前に、心臓が跳ね上がる。
「あ、そうですね……でも、悩み事ではないので、…大丈夫です」
「それなら、いいんだけど。…じゃあ、いってきます」
「あ、はい。いってらっしゃい」
 佐奈の言葉に、やさしげな笑顔を見せて、園長は事務室のドアを閉めて出て行った。

 ……悩み事、か……。

 自分は今、そんな顔をしてただろうか、と考える。




 紫がかった空に、紅く染まった雲が浮かんでいた。
 事務室の窓から空を見上げて、佐奈は立ち上がる。
 退勤の時間から一時間ほど経っている。
 子どもたちと職員は皆、奥の食堂にいるはずだ。
 食堂とは別に、事務室のすぐ隣に小さく設置された給湯室で湯を沸かし、コーヒーを落とす。
 給湯室からは見えない、カウンセリング室の様子を思い浮かべた。

 ……きっと、麻野先生は待ってる……。

 自意識過剰だろうか、とも考える。
 それでも、間違いないとも思う。
 コーヒーを入れたマグカップを盆に載せ、ゆっくりと廊下を歩いた。


 コンコン、とノックをすると「どうぞ」と声が返ってくる。
 その声を聞いてから、ドアを開けた。
「…コーヒー、持ってきたんですけど……」
 麻野は、壁一面に作りつけられている本棚の側で、なにやらファイルを整理しているようだった。
「ありがとう。机に置いてもらえるかな?」
「あ、はい……」
「昔のものは整理しようかなと思ってね。……僕の子どもの頃の資料なんかも残ってて……ちょっと恥ずかしいしね」
 と、肩を竦めて笑う。
「もう、大人になった方のものは、必要になることもないですよね」
「まあ、資料としては使えなくもないけど。でも、似たような経験をしたとしても、同じ性格だとは限らないしね。本当に、その子によって違うから」
「そうなんですか……」
 カップを机に置いて、後ろの麻野のほうへ向き合おうとしたところを、背中から抱きすくめられた。
「きゃ……」
「ごめん、驚かせちゃったね」
 そう言いながらも、佐奈の身体を抱きしめる腕は緩めることはなかった。
「でも、今日はずっと、早く君に逢いたくて……この時間が待ち遠しかったよ」
 背中に麻野の鼓動が微かに感じられた。
「せ、先生……」
 肩を抱いていた手がするすると佐奈の腕を滑っていく。
 ゆっくりと上下してから、喉元に指先で触れた。
「…ふ…っ……」
 思わず首がのけぞり、小さな声が漏れる。
「そんなに、我慢することないんだよ」
 指先だけが触れるようにしながら、胸元に降りていく。
「今の時間は、誰も来ないからね。……食堂からも離れているんだから、誰にも君の声を聞かれることはないよ」
「で、でも……」
「もっと、聞いてみたいな……君の全てを知りたいんだ」
 佐奈には、いいとも駄目だとも返事ができなかった。
「あ……!」
 胸の膨らみに沿うように、ゆっくりと丸く円を描きながら麻野の指が動く。
 下着とシャツを通していても、滑るような指先の動きが肌に伝わってくる。
 俯いていると、麻野の手のひらで自分の胸が包み込まれて、ゆっくりと揉まれていくのが目の前に見えて、目を開けていられない。
 麻野の指が動くたびに、今まで知らなかった感覚が呼び覚まされていくような気分になる。
 目を閉じていても眩暈がし、足元に力が入らなくなり、かえって麻野に身体を預けるような格好になってしまう。
「柔らかいね……想像していたよりも、ずっと女らしい体みたいだ」
 耳元で囁く声が掠れるように聞こえて、その声は佐奈の耳の中でひどく艶かしく響くように感じる。
 佐奈の呼吸はすっかり乱れて、浅い呼吸をやっとの思いで繰り返しているというのに、麻野のほうは普段と何も変わらないように思えた。
「あ…っ……あ……せんせい…っ……」
 胸元に触れていた手が滑り降りる。
 腰から腿にかけて、ジーンズの上から麻野の手がゆっくりと動いていく。
 身体を動かすことができないのは、肩を抱く麻野の拘束によるものなのか、身体が竦んで動けないのか、わからなかった。
 ふと、背中に密着していた麻野の体が静かに離れる。
「…は……」
「……あまり急ぐこともないよね。…早く全て知ってしまいたいという気持ちもあるけど」
 佐奈の体を振り向かせて、そっと抱きしめる。
「あ、あの……」
「……佐奈、と呼んでも?」
「あ…えっと……はい……」
 くすっと笑う声が、耳に柔らかく響いた。
「…佐奈。好きだよ」
 こんなふうに囁かれることなど、今まで考えてもみなかった。
 家族としてでもなく、友達としてでもなく。
 男女間の愛情として『好き』という言葉を使われることに、佐奈は不安を覚え、また同じだけの高揚感を持った。
 先日までは不安ばかりが先行していたけれど、今日はじめて感じた感覚に驚く。

 ……これが、『生きている』と実感することなのかな……。

 麻野の腕の中でまだぼんやりとしたまま、頭の片隅で梢の笑顔を思った。
 その時、ふと思い出したように
「来週、誕生日だってね」
 と、麻野は少し体を離して、佐奈の顔を見下ろしながら言った。
「えっ…あ、…はい……」
 驚いて麻野の顔を見上げる。
「その日はここでの勤務じゃないんだけど、よかったら食事でもどうかな?」
「え……そんな、お忙しいのに、申し訳ないですから……」
「大丈夫だよ。小学校での勤務の日だから、五時には上がれるんだ」
「でも……」
「恋人の誕生日くらい、お祝いさせて」
 と言って微笑む表情があまりにやさしくて、佐奈はたまらない気持ちになる。
 今まで、こんなに近くでこんなにやさしい顔で見つめてくれる人がいただろうか、と思う。
「あ、……はい……なんか、すみません……」
「じゃあ、…六時に、駅前に迎えに行くよ。僕は車で行くから、外で待っててもらえるかな」
「…はい……ありがとうございます……」
 麻野は佐奈の返事を確かめるように頷いて、佐奈の髪をそっと梳くように撫でた。


 カウンセリング室を出たところで、
「佐奈ちゃん。どうしたの?」
 と、声をかけられ、その瞬間びくんと体が震えてしまうほど驚いた。
 振り向くと、園長が立っていた。
「あ、あの、…麻野先生に、コーヒーをお持ちしたんです。ちょうどこの時間に、休憩だって話を聞いてたものですから」
「そう。…もう佐奈ちゃんは退勤の時間は過ぎてるんじゃない?」
「あ、はい、もう帰るところです。…お疲れさまでした」
「はい、お疲れさま。また明日ね」
「はい、失礼します」
 ぺこりと頭を下げて、足早に事務室に向かった。
 背中の向こうで、園長がカウンセリング室のドアをノックするのが聞こえた。



 ……変な顔、してなかったかな……大丈夫だったらいいけど……。

 事務室のドアに背中を押し付けるようにして、もたれかかった。
 頬を撫でると、まだ熱っぽい。
 自分の指が触れただけで、先ほどの麻野の指の感触が思い出される。
 やさしく、いとおしむように自分の体を愛撫する手の動きが、脳裏に焼きついて離れない。
 胸に手を当てると、まだ心臓がどくどくと音を立てているのがわかった。
 深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
 それでも、気持ちの昂ぶりは抑えられそうにもなかった。
 来週の誕生日。
 麻野との約束を思い浮かべる。

 ……本当にいいのかな……。

 申し訳ないような気持ちもなくはなかったが、それ以上にその日が楽しみに思えて仕方がなかった。