Man and Woman

clover

09.

 佐奈が出て行ってすぐに、カウンセリング室のドアがノックされた。
「はい、どうぞ」
「ちょっと失礼しますよ」
 と、入ってきたのは園長だった。
「どうかしましたか?」
 麻野は先ほど佐奈がこの部屋に入ってきたときとと同じように、本棚の整理をしていた。

「いえ、ちょっとね。……佐奈ちゃんのことなんだけど」
 後ろ手でドアを閉め、ソファに座る。
 体格のいい園長のせいで、古いソファはぎしっと音を立てた。
「彼女が、何かありましたか?」
 手元で広げていた本をぱたんと閉じて、本棚に仕舞う。
「今日の午後、ちょっと事務室に行ったときに、何か悩んでいる様子だったから気になって」
 そう言う園長の顔は、まるで自分が深く悩んでいるかのように、眉間に皺を寄せて困りきった顔をしていた。
「…そうですか」
「今、ここに来ていったようだけど…何か言ってなかった?」
「いえ、……でも、悩み事の元は僕かもしれませんね」
 と、肩を竦める。
「何かあったの?」
「彼女と付き合いはじめたんです。ただ、まだ僕の一方的な気持ちで付き合わせているようなものですけど」
 園長は心底驚いたとでもいうように目を丸くをし、口元に手をあてた。
「……なるほど。それかしら……あの子は、…奥手というか、疎いとでも言えばいいのか……そういう子だから」
「それで、少し悩ませてしまっているかもしれません」
 麻野はやや苦笑交じりに微笑む。
「ううん、それなら……あの子ももうすぐ十九になるし。もう大人なんだから、私がとやかくいうことでもないわね」
 先ほどの苦悩した表情とは一変して、園長はまだ戸惑いは残るものの、安心した表情に変わっていた。
「親代わりの先生にとっては、心配でしょうけど」
 と、小さく首をかしげる麻野に、牧師はそれを打ち消すように手を振って答えた。
「あなたが相手なら心配はないわ。……ただ、」
 やや言いにくそうに間をおいてから、心配そうな表情に変わる。
「……あなたの体のことは、どうなの?」
 麻野は一瞬驚いたような表情を見せた。
「……ああ、先生は全てご存知ですね」
 と、伏目がちにして笑う。
「変わりはないですよ。……彼女にはまだ知らせてはいませんけれど」
「そう……」
「そう急ぐ話でもないですし」
「それはもちろんよ。あの子は……もちろん、あなたのことも、ここで育った子たちは皆、自分の子どものように思っているわ」
 まっすぐに麻野を見つめる。
 麻野も園長の目を見返した。
「はい」
「もし、あの子が悲しむようなことがあれば、私もとても辛いわ。…わかってもらえるわね?」
「ええ、もちろんです」
「大切にしてあげてね。お願いよ」
「はい、約束します」
「私の用件はそれだけよ。……思いがけない話を聞いてしまったわね」
 と苦笑し、麻野もつられて少し笑った。




 自宅のアパートに戻った佐奈は、夕食の仕度のために買ってきたスーパーの袋を玄関に置いたまま、ベッドに横たわった。
 まだ身体に触れられることは怖かったし、慣れるなどということはありえないとは思ったが、それでも先日よりは動揺が小さかった。
 先ほどの麻野の言葉がずっと頭の中で繰り返されている。
 『佐奈』と呼ばれた自分の名前が、あんなに美しく柔らかく、耳の中で響くように聞こえたのは初めてだった。
 麻野の声は、時間が経つにつれて薄れていくどころか、より鮮明に思い出されて、佐奈の脳内を支配していく。
 佐奈は目を閉じてため息をついた。

 ……わたしは、先生の…恋人……。

 いまだ実感がないことではあるし、ふたりだけで外で逢うことだって、来週の約束が初めてだ。
 ――恋人の誕生日くらい、お祝いさせて。
 麻野の言葉を思い出す。
 『恋人』という響きに胸が高鳴り、その言葉を思うだけで頬が熱く上気する。
 手のひらで顔を覆い、深呼吸をした。
 いつもならもうこの時間には空腹のはずなのに、胸がいっぱいで食事の準備をする気にもなれない。
「……先にお風呂にしようかな……」
 よろよろと起き上がり、バスルームに向かう。
 一人で入ってても狭く感じるくらいのバスルームではあるが、シャワーだけしか使えないようなユニットバスは、高校三年間を過ごした寮でもうこりごりだった。
 蛇口をひねり、浴槽に湯を溜めていく。
 着替えを揃えるために部屋に戻り、バスルームの扉の側に置いた。
 半分くらいまで湯が入ったところで、バスキューブをひとつ落とした。

 佐奈はあまり余計な買い物はしないほうだったが、バスグッズだけは別だ。
 施設にいたころはひとりで使える風呂ではなく、大勢で入るような風呂だったし、高校に入ってから暮らしていた新聞社の寮ではトイレと風呂が一緒になったユニットバスだったため、ほとんどシャワーしか使えない生活だった。
 そのため、一人暮らしをするにあたって唯一拘ったのが風呂だった。
 入浴剤やスポンジなど、好みのものがあれば今はつい買ってしまう。
 それが佐奈にとって唯一ともいえる贅沢だった。

 服を脱ぎ、体を流してから湯に浸かった。
 湯気とともに広がるラベンダーの香りを深く吸い込むと、気分が落ち着いてくる。
 ふと俯いて、湯の中に沈む自分の体を見る。
 スタイルがいいわけでもなく、胸もあるわけじゃない。
 子どもの頃に受けた傷の痕も、体のあちこちにうっすらと残っていて、お世辞にも綺麗な肌とは言えない。
 麻野の手が直に肌に触れたわけではないが、それでもこの体に誰か他人の手が触れるなんてことは、医者に掛かるときくらいしか経験がなかったし、女らしいなんて言われたのも初めてだった。

 ……初めてのことが、多すぎるよ……。

 はあ、と一つため息をつき、口元に水面が届くくらいまで体を沈めた。


「……明日は、ちゃんとしなくちゃ」
 バスルームから出て、髪を拭きながら独り言を零す。
 今日のうちに終わらせたかった書類は結局最後までできなかった。
 ようやく感じてきた空腹感にややほっとしながら、明日は早めに出勤しないとと考えた。




「おはようございます」
 佐奈が出勤してきたとき、園長は玄関前の掃除をしていた。
 毎朝の彼女の日課であることは佐奈も子どもの頃から知っていた。
「ああ、おはよう。…今日はずいぶんと早いわねえ」
「昨日作るはずの書類ができなかったので……あとで、ハンコもらいに伺います」
「ええ、いつでも大丈夫よ」
 と、微笑む園長の側を通り抜けようとしたとき、
「昨日、麻野君に聞いたわ。つきあってるんだって?」
 という言葉に心臓が跳ね上がり、顔に火がついたように感じるくらい一気に頬が紅潮する。
「ええっ…や、やだ、そんな話したんですかっ」
「いえ、ほら、昨日、佐奈ちゃんずいぶん悩み事をしているふうだったから、心配になってねえ。麻野君に聞いてもらえたらいいかなと思ったの」
「はぁ……」
「おせっかいだろうとは思ったけどねえ。…そうしたら、佐奈ちゃんとつきあうようになったって…それで、慣れないことだから困らせちゃってるのかもしれないって」
「はあ…そうですか……」
 それは、間違いではない。
 男性と言葉を交わすというだけでも緊張するのに、『恋人』という位置づけで言葉を交わし、手を握られたり抱きしめられたりするような相手ができるなんて思ってもいなかった。
「まあ……佐奈ちゃんももう、子どもじゃないんだし。そして彼ならきっと、佐奈ちゃんを幸せにしてくれるかなって思うの」
「そう…ですね……先生は、とてもやさしいですし……まだピンときてないことは確かなんですけど……」
 と小首を傾げる佐奈を見て、園長は目を細める。
「そして佐奈ちゃんも、きっと、彼を幸せにしてあげることができると思うわ」
「……そう…なんでしょうか……」
「この話は、みんなには内緒にしておかなくちゃならないわね。子どもたちはみんなこういう手合いの話は好きだから、散々冷やかされてしまうわね」
 と、苦笑するのにつられて、佐奈も笑った。
「そうですね。…麻野先生、素敵な方ですから。……わたしなんかじゃ釣りあわないと思うんですけど」
 本当はもっと落ち着いた雰囲気の大人の女性といるほうが、麻野にとっては釣り合いが取れるだろうと佐奈は考えていた。
 そんな佐奈の考えを打ち消すように、きっぱりとした口調で園長が返す。
「そんなことはないわ。大丈夫。…きっとね」
 根拠はわからない。
 そして彼女は考えていることの多くを語らない性格であることを、佐奈は知っていた。
 ただ、園長が自信ありげに物事を言い切るときは、必ずその通りになるということも知っていた。
「……はい」
 まだ自分に自信を持つことはできそうにもなかったが、麻野と逢う時間が今までより少し、楽しみに思えた。