Man and Woman

clover

10.

 毎月決まった日に、佐奈は市内の高台にある墓地に出かけた。
 共同墓地にあたる大きなモニュメントの前に、持参した花束を置いて手を合わせる。
「お母さん。来たよ」
 顔を上げて、小さく声をかけた。

 母と二人で父の元を離れて、この街にたどりついた。
 所持金もなく、身寄りもない二人だったが、さくら園はあたたかく迎え入れてくれた。
 佐奈は他の子どもたちとともに生活をし、母は同じく園で住みこみで働くようになった。
 穏やかな日々が続くと思っていた矢先に、母が倒れた。
「……あれから、もう十年になるんだね……」
 父の元を出たのは小学校三年生になったばかりの頃だった。
 当時の記憶はもう曖昧で、父の顔を思い浮かべようとしても、ほとんど覚えていないことに気づく。
 あんな父でも、昔はやさしかった時もあるのだろうか。
 そんなことを考えて、麻野の顔を想いうかべた。




 月曜日、麻野との約束の日だった。
「……お食事って、どこに行くんだろ……」
 服装にうるさい職場ではないので普段はジーンズばかりだったが、今日は紺色のシャツワンピースを選んだ。
 そんなに改まった場所に出かけられるようなものではなかったが、ある程度なら大丈夫だろうと思ったからだった。
 鏡の前で襟元のリボンを結び、一呼吸する。
「…なんか緊張するなあ……」
 高校生の時だって、友達から誕生日プレゼントをもらったり、ファミリーレストランでささやかなパーティーをしてもらったこともある。
 しかし今日は今まで経験のある誕生日とまるで違うような気がした。
「さ、行こう」
 ベージュのカーディガンを手に取り、ハンドバッグの中身を確認しながら玄関を出た。

「佐奈ちゃんおはよー…って、スカートだ、めずらしー」
 さくら園の玄関で登校前の中学生の子と行き違った。
「おはよ。…たまにはスカートもはくよ、一応」
「へえー、かわいいじゃん。今日デートでもあるの?」
「な、なんでそうなるのっ」
 何気なく言ったことだとは思うのだが、ひどく動揺してしまう。
 そんな自分が子どもっぽく思えて少し嫌になった。
「えー? だってほら、おめかしするったら、デートでしょ」
「そんなことないよっ。ほら、もう遅刻する時間だよっ」
「なんだ、つまんなーい。じゃーねー、いってきまーす」
「いってらっしゃいっ」
 心臓がばくばくと音を立てる。
 中学生とはいえ、まだまだ子どもの言うことにいちいち反応することもないはずなのに、とため息をつく。

 ……わたしのほうが、子どもっぽいのかなあ……。

 熱くなってしまった頬を両手で包みながら、事務室に向かった。



 夕方、約束の時間の五分ほど前に駅前についた。
 最寄の駅はそう大きくもなく、駅前のロータリーには客待ちのタクシーや迎えの車が数台停まっていた。
「ここにいれば、わかるかな……」
 ロータリーの入り口近くに立ち、ぼんやりと周りを見渡す。
 中央の花壇には赤いサルビアが植えられていて、やや薄暗くなりつつあるこの時間でも鮮やかな赤い色が目に沁みるようだった。
 佐奈の視界の中に、濃紺のステーションワゴンが滑り込んで来る。
 運転席にいる人物に気がついたときには、佐奈の目の前に車が停まっていた。
「待たせた? ちょっと道混んでたんだ」
 助手席側の窓が開いて、麻野が運転席から声をかけた。
「いえ、全然です。ついさっき着いたところです」
「そっか、よかった。乗って」
 促がされて助手席のドアを開けて乗り込んだ。


「ちょっと郊外のほうに、いい店があるんだ。そう遠くはないよ。…帰りはちゃんと家まで送るから」
「あ、はい、なんか…お言葉に甘えちゃって……申し訳ないです」
「何言ってるの」
 と、くすくす笑う声が耳をくすぐっていくように感じて、つい俯いてしまう。
 麻野はそんな佐奈の様子を横目で見て、微笑む。
「…ごめんなさい、まだ、なんか全然…子どもみたいだと、思われますよね」
 赤くなった頬を手で隠すようにしながら、呟いた。
「仕方がないよ、初めてなんだし」
「……先生は、……初めてじゃ、ないんですよね」
 ハンドルを握る麻野の手を見た。
 ふと、その手が自分の体に触れることを思い浮かべ、慌てて目を逸らす。

 ……わたし、何考えてるんだろ……。

 自己嫌悪し、仕方なく窓の外を眺めた。
「まあね。それなりにいい年だし?」
「そうですよね、……すいません、変なこと言って……」
「いや、……気になる? そういうこと」
 ちらと横目で佐奈を見る。
 先ほどから佐奈の顔色がころころ変わっているのは手に取るようにわかっていた。
「そういうわけでは…ないんですけど……」
「けど?」
 交差点の信号が赤に変わり、車が停まった。
「あの……先生はわたしよりずっと大人だし、…素敵な方だと思うんですけど……どうして、わたしなのかなって……」
「そんなこと、気にしてるんだ?」
 と、何気なく前髪をかき上げる仕草も、どこか自分とは違う男性的なものを感じてしまう。
 そしてそう感じるのは自分が自意識過剰なせいなのかもしれない、などと考えた。
「だって……」
「佐奈は、かわいいよ。…きっと、君が自分で思ってるよりずっとね」
「そ、そんなこと……」
「もっと自信を持ってもいいんだよ。…まあ、そうやって恥ずかしがったりするところもかわいいんだけどね」
 と、左手を伸ばして佐奈の髪を撫でる。
 髪を撫でられるだけでたまらない気持ちになり、きゅっと目を閉じた。
 麻野は佐奈の耳元の髪を後ろにかき上げるように撫で、耳たぶに指を触れる。
 佐奈がかすかに熱っぽいため息を漏らすのを聞き、満足げに微笑んだ。
 信号が青に変わり、麻野の手が佐奈から離れる。
 佐奈は車が動き出してからようやく目を開けることができた。
「そういえば、スカート、初めて見た」
「あ、そうかもしれません…いつもはジーンズばかりですから」
 なんとなく、脚を見られるのは恥ずかしくて、あまり意味がないとわかっていてもワンピースの裾を軽く下に引っ張る。
「そうだよね。あそこで仕事してると、けっこう雑用なんかも頼まれるだろうし」
「そうなんです。だからどうしてもパンツのほうが楽で……。もともと、あまりスカートを持ってないというのもあるんですけど」
 脚のほうにも目立たない程度ではあるが、痣がある。
 素足を出す気にはなれず、少し子どもっぽいと思いながらもハイソックスをはいてしまっている。
「そうなんだ。スカートも似合ってるよ」
「あ、えっと、…ありがとうございます……」
 車は住宅街の中の一軒家の前で停まった。
 小さな看板がなければ、隣り合う一般住宅となんら変わりない建物だった。
「ここだよ。フレンチなんだけど、わりと気軽な感じの店でね。味もいいんだ」
「楽しみです。…わたし、あまりこんなレストラン来たことなくて……ちょっと心配ですけど」
「大丈夫だよ。難しいことはないから」
 そう言って笑う麻野が佐奈の背中に手を添えるようにして店のドアを開いた。

 佐奈にとっては見慣れないメニューばかりで、自分で決めることができずに、結局全て麻野に任せることになった。
 小ぢんまりとした店内には弦楽器の柔らかな音色の音楽が流れ、やや落とし気味にした照明の中、各テーブルで小さなキャンドルの炎が揺らめいていた。
「誕生日おめでとう」
「ありがとうございます……」
 佐奈はまだ未成年だし、麻野は車を運転するせいで、ワインなどは飲めずに、店のほうで用意してくれたソフトドリンクで乾杯することになった。
「来年は、車は置いてこなくちゃね」
「え…っと……」
 その麻野の言葉の意味を分かりかねる表情をする佐奈を見て、くすくすと笑う。
「あ、……そ、そうですね……」
 一年後、自分が一体どうしているか、思いつきもしなかった。

 食後のデザートが出てきた頃、麻野が思いついたように話し出した。
「そういえばね、」
「はい」
「ちょっと忘れ物をしてしまったんだ。この後少し、僕の家に寄ってくれるかな?」
「あ、…はい……」
 まだそう遅い時間でもないし、ちょっと寄るくらいならば明日の仕事にも支障はないだろうと考え、返事をした。
「そう、よかった。明日も仕事だしね。遅くならない程度に」
「そうですね」
 麻野は佐奈の返事を確かめるように頷き、目を細めた。