12.
佐奈はアパートの部屋に帰って、靴も脱がずに玄関のドアに背中を預けて立っていた。
まだ、指先が冷たい。
麻野はアパートの前まで車で送ってくれた。
その間、いろいろと話をしたことはわかっているが、何を話していたのかはほとんど覚えていなかった。
そのくらい、気が動転している。
天井を仰ぎ見て長いため息をついた。
それでも、頭の中は一向に落ち着く気配を見せない。
「……お風呂…入らなくちゃ……」
重い足を引きずるような気持ちで靴を脱ぎ、部屋に入った。
浴槽に湯を溜めながら、服を脱ぐ。
下着だけの姿になった瞬間、先ほど麻野に触れられた感触を思い出す。
恋愛の過程の中では、男女が素肌に触れ合うということがあるというのは佐奈だって知っている。
しかし佐奈にとっては初めてのことで、驚きと恐怖を感じてつい泣き出してしまった。
ただ、乱暴に触れられたわけではなかったことだけは感じていた。
むしろ、やさしくいとおしむように抱きしめられて、麻野の言葉が真実であることを実感できた。
「……でも……」
ぽつりと声に出して呟く。
浴室の鏡に映った自分の肌の上に、小さな赤みがいくつか残っている。
腕や胸元に散った痕は、今まであった傷跡とはまったく違う熱を帯びているようだった。
『忘れさせてあげる』
と言った麻野の声を思い出して、また頬を赤らめる。
淡い紅色の花びらのような痕は、確かに佐奈に過去の傷を忘れかけさせていた。
そして、胸元で白い輝きを放っている小さなクローバーに指先で触れる。
「……きれい……」
アクセサリーなど今まで持ったこともなかった。
こんな小さな輝きでさえも、佐奈の心をどこか浮き立たせる。
首の後ろに手を回して金具を外そうとするが、やはり簡単には外すことができなかった。
ようやく外した頃には、浴槽の湯が溢れかけていた。
次の日――火曜日は麻野がさくら園に出勤してくる日だった。
昨夜ほとんど眠れなかった佐奈は、普段はあまり飲まないコーヒーを飲んで眠気をごまかしていた。
壁の時計を見ると、間もなく午後二時になる。
……もうすぐ、…麻野先生が来る……。
とくん、とくん、と心臓の音が高まっていく。
昨夜のようなことがまた、あるのだろうかと考える。
期待、ではない。
恐怖に近い感情が佐奈の中にあった。
ただ、昨夜の些細な嘘を告白したときの麻野の表情が思い浮かんだ。
……今日、わたしがあの部屋に行かなかったら…あんな顔をするんだろうか……。
自分が麻野に対してどんな想いを抱いているのか、わからない。
しかし、麻野がまた昨夜のような寂しそうな顔をするのなら、その原因が自分になるということは、嫌だった。
ふう、とため息をひとつついて、パソコンに向かった。
夕方、窓の外が紅く染まる。
庭の木々も礼拝堂も、オレンジ色に染まって見えた。
佐奈は仕事の手を止めて窓の外に目を向け、その赤の景色の眩しさに目を細める。
……わたしは、麻野先生のことが…好きなのかな……。
姿を見かけただけでも心臓が高鳴る。
あの声で囁かれると、それは媚薬のように耳の中で溶けて佐奈の中に染み入るように感じる。
いつも落ち着いていて穏やかで、そのくせ極まれに昨夜みたいな寂しげな表情を見せる。
そのせいだ、と佐奈は考える。
……あんな顔されたら、気になるに決まってるじゃない……。
しかし、それが『恋』になるのかもしれない、とも思った。
訳もなく誰かのことを気にかけたり、姿を見かけるとドキドキしたりするのが恋ならば、今の自分はまさに『恋』に落ちていると言っていいのではないか。
襟元のペンダントに触れた。
昨夜麻野からもらった四葉が白く輝いている。
……わたし、先生のこと好きなんだ……。
そのとき、五時を知らせる鐘が鳴った。
一時間後、佐奈はカウンセリング室のドアを叩いた。
「はい、どうぞ」
中から聞こえる声を確かめるように聞いてから、ドアを開けた。
机の前の椅子に麻野が座っていた。
「…おつかれさまです」
「ありがとう。……よかった」
安堵したように微笑む麻野の表情の意味がわからずに
「え?」
と、聞き返した。
「来てもらえないかと思ってた」
その言葉が昨夜の行為のことを指していることを理解するのに若干の間を要し、そして佐奈は頬を赤らめた。
「そんなこと……」
「…入って」
促がされて部屋に入りドアを閉めた。
机の側まで行き、その上にコーヒーのカップを置く。
カップから手を離した瞬間、麻野の手が佐奈の指に触れた。
「あ、あのっ…先生……」
「なに?」
「わたし、…昨日からずっと、考えたんです……わたしの…気持ちとか……」
「うん」
麻野は佐奈から手を離し、ゆったりと椅子の背にもたれて佐奈を見つめる。
「……わたし、…先生のことが、好きです。……まだ、自信はないんですけど、そうだと思うんです」
「それは…うれしいな」
胸の前で指を組んで穏やかな表情で微笑む。
「先生といると、ドキドキして……男の人と話したりするときは、どうしても緊張するんですけど、……それともちょっと違うように思うんです」
「どう、違うと思うの?」
「それは、…まだよくわからないです……緊張もするけど、何か…そこまでは、わかりません……でもみんな、好きな男の子の前ではドキドキするとか、緊張するとか言ってました。……だから…それって、好きってことですよね?」
「そうだね、そういうのは恋愛感情のはじまりと言えるかもしれないね。…そう思ってくれたのは、とてもうれしいよ」
ぎしっと椅子が軋む音を立てる。
麻野が身を乗り出して佐奈の手を握った。
「じゃあ、確かめてみようか」
その言葉に佐奈はただ目を瞬かせるだけだった。
「……僕の前で服を脱ぐことができる?」
じっと佐奈の目を見つめたまま、握った手をそっと指先で撫でた。
「えっ……そ、そんなこと……」
「全部とは言わないけど、…昨日は僕が脱がせてしまったからね」
「でも……」
「好きな男の前で全てを曝け出すというのは、何もおかしなことじゃないよ」
と、襟元のネックレスに手を伸ばす。
「……うれしいな、つけてきてくれたんだ」
チェーンを指先でゆっくりとなぞってクローバーに触れる。
「……できる?」
眼鏡の奥から佐奈の目を見つめた。
その視線から目をそらす。
無理だと言ってしまいたかった。
……でも、先生をがっかりさせてしまうかもしれない……。
ごくり、と喉を鳴らすが、口の中はからからに渇いている。
震える指で襟なしのブラウスのボタンをひとつずつ外していく。
普段の着替えよりもずっと時間がかかっているが、その様子を麻野はじっと見ていた。
心臓の音が耳鳴りのように佐奈の耳の中で渦巻く。
ボタンを全て外し終わったときには、緊張のためか激しい眩暈に襲われ、立っているのがやっとだった。
「……先生……これ…以上は……」
俯いて今にも泣き出しそうな声で呟く。
「そうだね、初めてにしては、よくできたよ」
佐奈の手を取って引き寄せ、ブラウスの中に手を滑らせる。
肌蹴たブラウスの中はパステルピンクのキャミソールが頼りなげに佐奈の肌を覆っている。
その中へ躊躇うことなく指先を進めた。
「…あ……っ……」
肌に直接麻野の体温を感じて、佐奈は思わず小さな声を上げる。
麻野の反対の手はブラウスを肩まで脱がせていた。
「昨日の痕……まだ残ってるね」
幾分か赤みが引いた部分を指先で触れて、昨夜と同じように唇を寄せた。
「あ…っ……!」
強く吸い付かれた痛みに小さな悲鳴を上げる。
「これは、僕の印だよ」
「…しるし……?」
「そう。……佐奈は、今は僕のものだからね」
と、キャミソールを捲って上半身を露わにする。
「きゃ……」
自分の身体に施されている行為があまりに恥ずかしく思えて、佐奈はきつく目を閉じる。
「ちゃんと、見て」
しばらく背中を撫でていた麻野の指が、佐奈の瞼に触れた。
促がされて恐る恐る目を開ける。
「いい子だ。……従順な子は、好きだよ」
と、唇を重ね、長く深いキスを交わす。
そして背中に手を回し、ブラのホックを外した。
「や……」
「怖がることはないよ。そんな反応も、かわいいけどね」
胸の膨らみを手のひらで包み、ゆっくりと揉む。
俯いているせいで、その様子が目の前に見え、佐奈は思わず目を閉じるが、麻野の言葉を思い出し、すぐに目を開ける。
ただ見ていることもできなくて、自分の胸元から目をそらした。
「ふ…っく……ああ…っ……」
奥歯を噛み締めていても声が漏れる。
麻野は佐奈のその様子を微笑を浮かべながら見つめていた。
「あ……!」
麻野が胸の先端を指先で摘んだ瞬間、強い刺激が佐奈の身体を駆け巡った。
「ほら、見てごらん。…ここは触られるとこんなふうになるんだ」
と、裸の胸が佐奈にも見えるように、キャミソールとブラを先ほどまでより上にたくし上げる。
佐奈がゆっくりと視線を移した先では、胸の膨らみは麻野の両手で包み込まれ、その指先で摘まれている先端は普段よりツンと固く形を変えていた。
麻野がほんの少し指を動かすだけで、びりびりとするような刺激が感じられる。
「あっ……」
「どんな感じがする?」
指にやや強く力を込める。
佐奈の身体がびくんと震えた。
「…わ…わかりません……でも……」
いやいやとするように首を振る佐奈に、麻野は穏やかな口調で問いかける。
「でも?」
「こんな…はじめてで……あっ…だめですっ……!」
佐奈の言葉の途中で、麻野がそこに口づけた。
口の中に含み、舌の上で転がすように舐める。
「ああっ……!」
軽く吸いたててから、ちゅ、と小さな音を立てて唇が離れた。
「まだ、不思議な感覚があるかもしれないね。…すぐに、気持ちいいと思えるようになるよ」
もう片方も同じように口に含む。
今度は佐奈にも見えるように、舌を出してそこを舐めていく。
麻野の唾液で薄く濡れた肌がひどく淫らに見えて、我慢できずに目を閉じた。
そしてまた、麻野は佐奈の唇を求めた。
唇の間に舌を割り込ませて、口内をゆっくりと味わう。
「…ん……」
鼻にかかった甘いため息が佐奈の唇の隙間から漏れるのを聞いて、麻野は薄く目を開ける。
目を閉じて必死にキスを受ける佐奈の顔を確かめてから、また目を閉じた。
「……そろそろ時間だ」
唇を離してから、佐奈の乱れた着衣を整え出す。
長いキスからやっと解放された佐奈は、頭の中に霧がかかったようなぼんやりとした気持ちだったが、麻野の言葉でふと我に返った。
「え……あ…自分で…します……」
「……続きは、また今度」
くすっと笑う麻野に、佐奈はどう返事をしていいのかわからず、ただ俯いて服を着なおした。