Man and Woman

clover

14.

 自宅の浴槽にゆっくりと体を沈めた。
 白濁した甘い花の香りの湯に肩まで沈めると、傷跡も口付けの痕も見えなくなり、佐奈はそれだけで少し安心する。
 長いため息をつきながら、天井を見上げた。
 頭の中では色々なことを考えているようで、散漫になりすぎて結局何を考えているのか自分でも把握できない。
 目を閉じると、麻野の穏やかな微笑みが瞼の裏に浮かび、それから、先ほどの愛撫の感触が肌の上に甦る。
 そしてまた、俯いてため息を零した。


 のぼせる一歩手前で風呂から上がり、冷蔵庫から麦茶を取り出してグラスに注いだ。
 まず1杯その場で飲み干し、もう一度グラスに注いでから麦茶のボトルを冷蔵庫にしまう。
 ベッドに腰を下ろしたところで、テーブルに置いてあった携帯の着信ライトが点滅しているのに気がついた。
「あ…メール来てる……」
 開いて見ると、受信リストには麻野の名前が表示されていて、その名前を見ただけでとくん、と心臓が音を立てた。

『日曜日、あいてる? 時間があればどこか遊びに行かない?』

「日曜……」
 ぽつりと呟いた。
 髪をバスタオルで拭きながら、壁のカレンダーを見上げる。
 特に予定がないのは、カレンダーを見なくてもわかっていたが、新しい予定が入ったときには必ず確認してしまう。
「あさって…だよね……」

『日曜は特に予定はないです。天気がよければお弁当作りますか?』

 とメールを返信する。
 料理は胸を張って得意と言えるほどではないにしても、嫌いではなかったし、自炊するのももう四年目になる。
 高校のときから今でもずっと自分で弁当を作っていることもあって、同じ年頃の女の子の中では慣れているほうだと思っていた。
「明日、お買い物に行けるし……何作ろうかな……」
 独り言を言いながら、あれこれ考えをめぐらせているうちにメール着信音が鳴った。

『じゃあ公園にでも。コスモスがきれいだよ。十時ごろ迎えに行くことでいいかな?』

 日に日に気温が低くなり、長袖で過ごすのも暑さを感じなくなってきていた。
「コスモス……そっか、もう秋なんだもんね……」

『わかりました。待っています。』

 返事を打ってから、料理本を出して捲る。
 そのうちに、

『お弁当、楽しみにしてるよ。おやすみ。』

 と送られてきたメールに、少し頬を赤らめた。
 少し考えた後、

『おやすみなさい。』

 とだけ打って返した。



 約束の日、目が覚めると前夜の天気予報の通り、澄み切った青空が広がっていた。
 佐奈は出かける準備も済み、窓と玄関を行ったり来たりしながらそわそわしていた。
 車の音が聞こえるたびに窓から外を覗く。
「あ、来た」
 以前にも見た、濃紺のステーションワゴンがアパートの前に停まるのを見て、すぐに玄関に向かった。
「お、おはようございます」
 佐奈が玄関を出たとき、麻野は車から降りたところだった。
 麻野の顔を見た瞬間、二日前に体に触れられたことを思い出してしまったが、できるだけそのことは考えないでおこうと思い直した。

 ……あんなことするのも、わたしのこと…好きでいてくれるから、だよね……。

「おはよう。ごめん、待たせちゃったみたいだね」
 麻野が部屋に迎えに行くよりも早く佐奈が出てきたことを指して言っているのだと気づいて、佐奈は頬を赤くして俯く。
「そういうわけではないんですけど……」
「荷物、後ろの座席に置いておこうか」
 と、佐奈の手から紙袋を取った。
「あ、ほんとは、なにかバスケットとかあればよかったんですけど……あまりかわいくなくてすみません」
「いや、ずいぶん大荷物だね」
「あ、あの、…お弁当です。……先生、どんなものが好きかわからなくて」
 昨夜からあれもこれもと考えていたものを作っているうちに、ふたりでは食べきれないかもしれない量になってしまった。
「メールしてくれればよかったのに」
 くすくすと笑って紙袋の中を覗く。
「あ、そうですよね……」
「でも楽しみだな。大丈夫だよ、好き嫌いはないほうだから」
 乗って、と助手席のドアを開け、佐奈を促がす。
「あ、ありがとうございます」
 佐奈はやや緊張した面持ちで助手席に乗り込んだ。


「わあ……きれい…!」
 階段を登りきったところで思わず感嘆の声を上げた。
 郊外の高台にある大きな公園の駐車場に車を止め、石畳の階段を登った。
 周囲の藪がひらけたとき、遊歩道の両脇にはコスモスが咲き乱れ、その向こうに街の景色が広がっていた。
「ここ、来たことはない?」
「はい、景色がきれいだって聞いたことはあるんですけど……」
「車でないと来にくい場所だよね」
 と、麻野はぼんやりと立って景色に見とれていた佐奈の手を引く。
 佐奈は正面から小さな子どもが走ってくるのも目に入っていなかった。
「あ……すみません……」
「転んで怪我でもしたら大変だからね。もう少し向こうに行ってみようか」
 すれ違っていく子どもを見遣りながら、佐奈の手を握りなおした。
「あ、はい」
 手を繋いだまま遊歩道を歩く。
 佐奈がちらりと麻野を見上げると、必ず視線を合わせて微笑む。
 風に揺れるコスモスに時々手を触れながら歩く、佐奈の歩調に麻野が合わせてくれていることに気がついた。
 頭ひとつ分以上身長差があるのに、こんなにのんびり歩く佐奈と歩くスピードが同じということはない。

 ……やっぱり、先生はやさしい……。

 繋いだ手のぬくもりで胸がいっぱいになる。
 異性を好きになるとか、恋とかいう気持ちが、今までは理解できなかった部分があった。
 まだまだ自分の気持ちに確かなものはなかったけれど。

 ……でもきっとこういうのが、恋っていうんだ。

 中学や高校の同級生たちが、それぞれが気になっている男子生徒のちょっとしたことで一喜一憂していたのを思い出す。
 その気持ちも、今なら少しわかる気がする。
 そんなふうに思いながら、麻野を見上げた。
「もう少し行ったところに芝生になっているところがあるから、そこでお昼にしようか。佐奈のお弁当、楽しみにしてたんだ」
 と、笑顔を見せられると照れくさいながらも幸せな気持ちになる。
 そして、それと同時に、

 ……こんな幸せで、いいのかな……。

 小さな不安ではあるが、それは佐奈の心の中で存在感を増してきていた。
「はい」
 佐奈はその不安感を払しょくするように、麻野に返事をした。
 


 芝生の上に佐奈が弁当を広げ、それを見た麻野が目を丸くした。
「これ全部ひとりで作ったの?」
 麻野のそんな表情を見るのは初めてで、そんなことだけでうれしくなる。
「え、はい。普段作ってるものとそんなに変わらないんですけど……」
「いつもちゃんとお弁当作ってるんだ」
 麻野は、いただきます、と言いながらおにぎりに手を伸ばした。
「さくら園って、歩いていける範囲にはコンビニもないですし……お弁当作らないとお昼困るんですよね」
「ああ、そういえばそうだね。働くにはちょっと不便だよなあ……コロッケ、朝揚げたの?」
 おかずの入った弁当箱を覗いて、ピックが刺さった小さなコロッケを取った。
「あ、はい。昨日のうちに準備してたんで……そんなに大変でもないですよ」
「すごいなあ。僕は全然、料理できないから。……うん、おいしいね」
「あ、ありがとうございます」
 よかった、と安堵しながら自分もおにぎりを口にした。
「先生も、ひとり暮らし長いんじゃないですか?」
「うん、まあね。でも自分では全然しないんだ。学生の頃は賄いをあてにして居酒屋のバイトばっかりだったよ」
 と、苦笑した。
「そうだったんですかー。なんかちょっと意外……」
「そう?」
「おうちに伺ったとき、お部屋きれいでしたし……家事とかされるのかなーって思ってました」
 佐奈の言葉にくすくすと笑う。
「そんなふうに見えた? 掃除もけっこういいかげんだけど、きれいに見えたならよかった」
 佐奈の言葉ひとつひとつに、目を合わせて相槌をうち、応えてくれる。
 麻野のそんな態度に、いつしか佐奈も普段よりよくしゃべるようになっていた。
「……あの、……」
「なに?」
「…わたし、……先生のこと、もっと教えてほしいです。あ、あの…大学のお話とか……もっと前のことも……聞いてみたいです」
「いいよ。なんでも聞いて?」
 いざそう言って穏やかな笑顔を見せられると、佐奈は言葉に詰まって何も言えなくなる。
 佐奈のそんな様子を見て、麻野はくすくすと笑いながら、
「でも別におもしろい話もないけどね」
 と、また弁当に手を伸ばした。


「先生って、けっこう……たくさん食べるんですね」
 結局、食べきれないかもしれないと思っていた弁当箱がほぼ空になり、今度は佐奈が目を丸くした。
「ああ…それはよく意外って言われる」
 デザートにと切ってきたりんごの最後の一切れを口に入れて、ごちそうさま、と続けた。
 どちらかと言えば痩せ型の麻野だったが、佐奈が想像していたよりもずっとよく食べるほうだった。
「だから先生、背が高いんですね、きっと」
 と、くすくす笑う佐奈を見て、麻野は満足そうに微笑む。
「…やっと笑ったね」
「え?」
「いつもなかなか笑ってくれないからね」
 と、肩を竦めて苦笑してみせる。
「そ、そんなこと……だって……」
 先生がいつもドキドキするようなことするから、という言葉を飲み込んだ。
 麻野といるときはいつも緊張と不安でいっぱいで、笑顔を見せるような余裕はなかった。
「だって?」
「……なんでもありません……」
 少し拗ねたような顔をした佐奈の頬にそっと指先で触れた。
「佐奈はかわいいな」
 その一言でまた一気に頬が紅潮する。
「ほら、また顔色が変わった」
 からかうように笑いながら佐奈の頬を突付く。
「か、からかわないでください…もう……」
 恥ずかしさをごまかすために片付け始めた手が、麻野と唇が重なったことで止められた。
「……からかってなんかないよ」
 一瞬の口付けのあと麻野が囁いた声は、静かにそよぐ風とともに佐奈の耳元をくすぐって消えた。