Man and Woman

clover

15.

「先生……?」
「…外でこういうことするのが好きってわけじゃないけど」
 肩を竦めてばつの悪そうな表情で笑い、目だけで周囲を見回す。
「わ、わたしも…わたしは、だめです、恥ずかしいです……」
 人影はまばらで、すぐ近くに人がいたわけではなかったが、それでも佐奈は真っ赤になった頬を手のひらで隠した。
「ちょうど人も少なかったからよかった。…あんまり佐奈がかわいいから、ついね」
「か…かわいくなんか…ないです……そんなふうに言うの、先生だけです……」
「そう? みんな見る目ないんだな。その分、僕がこうやって佐奈と一緒にいられるんだから、よかったけど」
「先生くらいです、そんな人……そんなふうに言う人、…はじめてです……」
 俯く佐奈の顎を麻野は指先でそっと上げて、目を合わせた。
「……じゃあ、これからも…佐奈のはじめてなこと、僕がもらってしまおうかな。…いい?」
 自分のはじめてなこととは、一体何があるのだろうと佐奈は考えを巡らせてみたが、こんなふうに男性と付き合うということ自体はじめてだったせいで、どんなことがあるのか具体的に想像することはできなかった。
「え……あの……はい……」
 佐奈の返事を聞いて、麻野は満足げに微笑んだ。
「…もう少し、散歩でもしようか」
 と、立ち上がり、佐奈に手を差し伸べる。
「あ、はい」
 佐奈は躊躇いがちにその手に自分の手を重ね、立ち上がった。


 夕方まで広い公園を散策したあと、中華料理レストランで早めの夕食を取った。
 アパートの前まで車で送ってもらい、帰り際にもう一度軽いキスをされたけれど、その日はそこで麻野と別れた。

 ……ほんのちょっとしか、…キス、しなかったな……。

 風呂の湯に浸かりながら、自分でふと考えたことに対して赤面する。

 ……わたしってば、何考えてるの……。

 俯いたときに胸元の紅い痕が目に入った。
 それはもう淡い色に変わっていて、よく見なければきっと他人に気づかれることはない。
 日に日に薄れていく色に少し寂しさを覚える。

 ……あさってには、また……。

 そんなふうに考えては、自分の考えを打ち消すように首を振った。



 次の日、佐奈は朝から憂鬱だった。

 ……明日、どうしよう……。

 月のものがはじまったということだけでも憂鬱な気分になるのが、麻野のことを考えると一層憂鬱になる。
 明日は麻野が出勤してくる日だった。

 ……でも、別にまた…あんなこと…するとは限らないし……。

 そこまで考えて、麻野の行為を期待しているかのような自分に驚き、ため息をつく。

 ……わたし、どうかしてる……。

 のんびりと考え事をしているほど暇な仕事ではないはずなのに、気がつくと手を止めてため息をついている自分がいた。
 体に触れられることがいいわけではない。
 佐奈にとってはまだ、快楽よりも羞恥心のほうが勝っていた。
 それでも、どこかで期待している部分もある。
 そんな自分が嫌になる。
 ため息をついて、窓の外を見た。
 柔らかな秋の日差しが庭に降りそそいでいる。
 明日も天気がよければいい、ぼんやりとそう考えてから、また机上のパソコンに目を移した。



「おつかれさま」
 いつものようにカウンセリング室に顔を出した佐奈に、麻野は穏やかな微笑みを向けた。
「あ、おつかれさまです」
「一昨日はありがとう。楽しかったよ」
「あ、わたしもです。晩ごはんもごちそうになってしまって……」
「いや、お昼は佐奈にごちそうしてもらったんだし。また誘ってもいいかな?」
 と、佐奈の腰を引き寄せる。
「あ、はい…あ、あの……」
「どうしたの?」
「あの、今日は……だめ、なんです…えっと……」
 どう説明していいのかわからずにしどろもどろになる。
「あの……き、昨日から……」
 言いにくそうに言葉を濁す佐奈の様子に、ふと心当たりがあるように瞬きをする。
「ああ…女の子は大変だよね」
 佐奈の言いたいことを察して笑う。
 自分で全て説明する必要がなくなった佐奈はほっと安心した表情に変わる。
「あ、そ、そうです…すみません……」
「全然、謝ることじゃないよ」
 くすっと笑って佐奈の頬を両手で包むようにして触れる。
「…じゃあ、今日はキスだけ」
 と、唇を重ねた。

 何度か啄ばむように唇を合わせてから、舌の先で佐奈の唇をなぞる。
「…あ……」
 その濡れた感触に無意識に唇を開いたところに、麻野の舌が入り込んで、佐奈の舌にねっとりと絡みつく。
 背中を撫でる麻野の指に、佐奈は身体を小さく震わせた。
 口付けしかしていないのに、立っているのがやっとなくらいに足元が揺らぐような錯覚に陥る。
 佐奈のそんな様子を察した麻野が、口付けはやめずに佐奈の腰を引き寄せ、自分の膝の上に座らせた。
 麻野の舌から逃げようとするのか、それとも応えようとしているのか、佐奈の小さな舌が動くことに麻野は充足感を覚える。
 そっと唇を離すと、
「…あ……」
 小さなため息をついてうっとりと目を開ける佐奈が目に入る。
「……まだ、足りない?」
「…え……そ、そんなこと……」
 潤んだ瞳が揺れ、頬の赤みが増す。
「じゃあ、これでおしまいにする?」
「え……」
 思わず聞き返してしまう佐奈をいとおしむように、髪を撫でる。
「それとも、もっとキスしたい?」
「あの、でも……」
「ああ、『しるし』をつけておかないとね」
 ブラウスのボタンを外し、襟元を開く。
 先日の紅い痕はもうほとんど見えなくなっていた。
「いつもここに、つけてあげるよ。……佐奈は僕のものだからね」
 その言葉に佐奈の胸に甘い痛みが広がる。

 ……わたしは、先生の……。

「い…っ……」
 肌を吸いたてられる痛みに眉を顰める。
 それでも肌の痛みよりも、麻野が唇を離したそこに新しい紅い痕ができていることに微かな喜びを感じた。
 そんな自分の感情に驚き、内心うろたえる。
「先生……」
「…もう、こんな短い時間じゃ足りないね。……もっと、佐奈に触れたい」
 佐奈の頬を撫で、唇を軽く重ねた。
「あ、……」
「……また、日曜に逢える?」
 椅子に座った麻野と、その膝の上に座っている佐奈の目線の高さがちょうど合わさった。
「え…あ……はい……」
 決して強要するような口調ではないし、あくまで佐奈の都合を伺った言い方ではあるが、佐奈には断ることもはぐらかすこともできずに返事をするだけしかできなかった。
 麻野は佐奈の返事を確かめるように頷いて、満足げな笑みを浮かべた。



 昼間、進まなかった仕事をできる限り終わらせて時計を見る。
 カウンセリング室から戻った後、いつもならすぐに帰る佐奈だったが、今日中に作成してしまわなければいけない書類が残っていたのだった。
 まだ廊下の向こうの子どもたちの部屋からは笑い声が聞こえているが、就寝時間が近かった。
「明日出さなきゃならないものはできたし……そろそろ、終わろう……」
 パソコンの電源を落とし、後片付けをしてから事務室の明かりを消した。

 玄関を出たところで、礼拝堂の扉が目に入る。

 ……ちょっと寄っていこうかな……。

 乗りかけた自転車から離れ、礼拝堂に向かった。


 扉の中に入ったところで、ため息をつく。
 『日曜に逢える?』という麻野の声が耳に残っていた。
 自分でもどちらかというと世間知らずなほうだと思うし、特に恋愛に関してはかなり疎いほうだと思っている。
 それでも、恋愛の過程や順序などは大まかには知っている。
 セックスにしても、佐奈と同じくらいの年頃の女の子であれば、経験がある子も少なくないということも知っていた。

 ……でも、わたしが……わたしも、…そう、するのかな……。

 夏の休日に会った友人の梢が『大好きな男とセックスしてるときって、生きてるなーって感じがするんだよね』と屈託のない笑顔で話していたことを思い出す。
 自分がそんな行為に及ぶことになるなんて、考えもしていなかった。

 ……ほんとうに、大丈夫なのかな……でも、そんなこと……いいのかな……。

 祭壇を見上げた時、背後の扉が開く音がした。
「…やっぱり、ここにいたんだ」
 はっと振り向くと、麻野が後ろ手で扉を閉めたところだった。
「先生……」
「玄関の自転車、佐奈のだろう? 帰ろうと思ったらまだ自転車があったから」
 と、佐奈の側に歩み寄る。
「もう遅いよ。食事もまだなんだろう?」
「あ、はい……大丈夫です、もう……」
「僕もこれからなんだけど、つきあってもらえたらうれしいな。一人で食事をするよりも佐奈がいたほうが楽しい」
「あ、…はい……でも、自転車が……」
 困った顔をして首を傾げる仕草が、十九歳と言う年齢よりやや幼く見えて、麻野は目を細める。
「僕の車、佐奈の自転車くらい積んでいけるよ」
「あ、そうですね……じゃあ、ご一緒させてください」
 ほっとした顔で微笑む佐奈の返事を聞いてから、麻野は礼拝堂の中をぐるりと見回した。
「…ここは相変わらず鍵は開けっ放しなんだね」
「あ、そうなんです…物騒だから閉めたほうがいいって言ってるんですけど……」
「そうだろうね。…でも、ちょっと隠れることができる場所でもあるから、よく使ったけどね」
 くすっと笑う麻野を佐奈は訝しげに見上げた。
「先生?」
「僕のファーストキスはここでだったんだよ。ここで一緒に住んでた女の子だった」
「せ、先生…ここでそんなことしちゃ、だめです…神様が、ご覧になってますから…っ……」
 慌てたような口調でそう嗜める佐奈を横目にくすくすと笑い、麻野は祭壇を見上げて、
「佐奈は神様を信じてるの?」
 と、佐奈に問いかけた。
「え、あ…はい……」
「へえ……そうなんだ」
 その表情には普段よりどこか皮肉っぽい色が見えた。
「先生は、違うんですか?」
「僕は信じてないよ。他の人が何を信じようと気にしないしね」
 と、横目で佐奈のほうを見て笑う。
 その切れ長の目に佐奈は無意識に見とれてしまっていた。
「……何かを信じることで楽になれるのなら、簡単だよね」
 と、突然麻野は自分のシャツを捲った。
 そこに見える傷跡に佐奈は息を飲む。
 礼拝堂の薄暗い明かりの中に浮かぶ麻野の肌の上には、火傷の跡と見られる引きつりがところどころに痛々しく残っていた。
「先生……」
「ここまで治療するのに時間がかかったよ。…これでもまだ、途中なんだ。一度に大きくは治療できなくてね」
「どうして……」
「事故、だよ。住んでた家が焼けたんだ。足のほうからずっと……体半分くらい、火傷を負って。リハビリなんかも大変でね。…でも、ひとりでがんばるしかなかった」
 佐奈には、麻野に対してかける言葉もみつからない。
 ただ黙って麻野を見つめるしかなかった。
「信じられるのは自分だけってね。……まあ、子どもの頃の話だよ。もう今では痛むようなこともないし。それでも、こんな体じゃなんだから、まとまった費用ができればその都度治療に行ってるんだけどね」
「…先生……」
「さあ、食事に行こうか」
 普段どおりの微笑みを向けられて、佐奈は口をつぐんだ。