Man and Woman

clover

19.

「佐奈?」
「……あ、はい」
 麻野のマンションと佐奈のアパートの中間ほどの場所にあるイタリアンレストランで、夕食のパスタをフォークに巻きつける手が度々止まる。
「まだ、ぼーっとしてる?」
 くすくすと笑う麻野の笑顔に、目を合わせることができずに俯く。
「……はあ……そうかもしれないです……」
「まあ今日は初めてだったんだし、仕方ないかな」
「そうなんでしょうか……」
 慣れていくものなのだろうか、と考えたけれど、
「……だけど」
 と付け加える麻野の言葉にふと顔を上げる。
 佐奈のそのきょとんとした表情に、麻野はまた笑い出す。
「な、なんですか」
「いや、かわいいなあと思って」
「……そうじゃなくて……」
「うん、……ああいうことはさ」
 と言う麻野の瞳が、佐奈の素肌に触れていたときと同じ表情に変わる。
 最初は普段の穏やかな微笑みとそう変わりがないように思っていたが、何かが違っていることに佐奈は今、気がついた。

 ……なんだろう……でも…また…どきどきする……。

 麻野の瞳から、なぜか目を離すことができなかった。
「相性ってものもあるけどね。でも、知れば知るほど深みに嵌るってこともあるみたいだし」
 麻野も、佐奈から目を離さずに、ゆっくりとした口調で言葉を続ける。
 とくん、とくんと心臓の音が高まっていくのと同時に、体の中心が熱くなっていく。
「……佐奈は、どうかな」
 レンズ越しの瞳が細められる。
「……え……?」
 自分の中に生まれつつある熱を見透かされているように感じて、一瞬目を泳がせた。
「僕はほら、こういう体だからさ。そういうのは経験ないけどね」
 少し肩を竦めて、テーブルの上に視線を移した。
 絡みつくような視線が外れたことで、佐奈はややほっとした気持ちになる反面、麻野の体のことについてどう返事をしていいのかわからなくなる。
 仕方なく麻野と同じようにテーブルの上に視線を移した。



 その後、取り留めのない会話をしながら、いつもよりもやや時間をかけて夕食を済ませた。
「じゃあ、また。……あさってかな」
 佐奈のアパートの前に車を停め、ヘッドライトを落とす。
「あ、そうですね……今日は、ありがとうございました」
 小さく頭を下げた佐奈の髪を、麻野の手がそっと撫でた。
「こちらこそ。楽しかったよ」
 ゆっくりと顔を寄せて軽く唇を重ねる。
 佐奈は何も言えずにただ、頬を赤らめるだけだった。
「……おやすみ、佐奈」
 穏やかな瞳が佐奈を見つめた。
「……おやすみなさい」
 呟くような小さな声で言うと、レンズ越しにこちらを見つめる瞳が細められた。
 つられるように少し微笑んでから、佐奈は麻野の車から降りた。


 自室に入り、ベッドに腰を下ろしてから大きくため息をつく。
 緊張感と、肌に触れられたことに対する羞恥心と、小さな幸福感がないまぜになり、胸がいっぱいだった。
 ごろりと仰向けに寝そべると、数時間前に麻野の部屋で同じように横になったときのことが脳裏に甦り、ひとりで赤面する。

 ……なに考えてるの、わたしってば……。

 またため息をついたときに目に入ったバッグの中で、携帯電話のランプが点滅していた。
「あれ……メール?」
 バッグの中から携帯を取り出して開くと、梢の名前が表示されていた。
『今日これから会えない?』
 とのメッセージに、驚いて壁の時計を見上げた。
 メッセージを受信した時間からそう何分もかかっていないことに安堵し、返事を打つ。
『明日仕事だからちょっとだけだけど、それでもいい?』
 送信したあと何分も経たずにまたメール着信音が鳴った。
『佐奈のアパートに行ってもいいかな? 泊まらせてー。』
 そのメッセージに思わず
「えー……」
 と、声に出してしまう。
『いいけど、明日の朝ちゃんと起きてね。』
 と打って送信した。
「泊まりか……うーん……」
 部屋の中を見回して、簡単に片づけをはじめる。
 そう散らかっているわけでもなかったが、今日は留守にしていたし、掃除が行き届いているとは言い切れなかった。
「……まあ、いいか……梢だし……」
 そう呟いたとき、携帯電話の呼び出し音が鳴った。
「はい、もしもし?」
『あ、佐奈? ごめんねー急に』
 そう悪いとも思っていないような軽い口調の梢の声が聞こえてくる。
「うん、びっくりしたよー。急すぎ」
『ダメだった?』
「ううん、いいけど……あんまり部屋きれいじゃないよ?」
『気にしないよーっていうか、たぶんあたしよりはキレイにしてると思うよ』
 それはそうだ、と言いたくなったが、その言葉は飲み込んで苦笑した。
「今どこ?」
 と聞いた佐奈に、梢は駅名を答える。
 そこは佐奈のアパートから一番近い駅から三駅ほど離れた場所だった。
「じゃあ、うちの近くまで来たら、また電話して。迎えに行くから」
 そう言って電話を切った。

 ふう、と一息ついて、またベッドに腰を下ろす。
 まだ昼間の余韻がだるさとして身体に残っているような気がした。
 梢から電話が来るまで、と思い、体を横たえる。
 目を閉じると、自然と今日の出来事を思い浮かべてしまう。
 麻野の視線、大きな手、長い指が肌に触れる感触、そして口づけ。
 耳元で囁かれた言葉ひとつひとつがまだ耳の奥に残っているように感じる。
「……先生……」
 小さく呟いた時にふと、麻野の過去に関わる話を思い出した。
 今までも聞いてみたい、知りたいとは思いながらも、どう聞いていいのか、聞いてもいいことなのか判断がつかずに、ただ麻野が話したことだけしか知り得ることがなかった。

 ……わたし、…先生のこと全然知らないな……。

 夕方、佐奈が目を覚ましたあとで麻野が見せた表情を思い浮かべた。
 あの時は薄暗いせいだと考えた麻野の寂しげな表情は、時間が経つにつれて印象が強くなっていた。
 見間違いなのではなく、実際にそんな表情をしていたのだと確信する。

 ……でも…どうしてかな……?

 自分の態度がまだ、はっきりしたものではなかったかもしれない、と考えた。
 実際、麻野が佐奈に言うように「愛している」という言葉で表せるほど強いものとは言い切れずに、どこか麻野のペースに流されている部分も大きかった。
 それでも、抱きしめられたり、キスをしたり、素肌に触れられるという行為さえも嫌だとは思わなかったし、麻野と一緒にいられることは幸せに感じはじめていた。

 ……もっと、ちゃんと、先生にわかるようにしなくちゃだめなのかな。

 だからといって、どうやって自分の気持ちを表現すればいいのか、どうすれば麻野に上手く伝えられるのか、いい考えが思いつかずにまたため息を零した。



 電話の呼び出し音で目が覚めた。
 ほんの数分の間ではあったが、眠ってしまったらしい。
 慌てて飛び起きて携帯電話を手に取る。
「もしもし」
『あ、着いたよー。でも佐奈のアパートの場所よくわからないんだけどー』
 のんびりとした口調の梢の声が聞こえてくる。
「あ、うん、今迎えに行くから。改札出たところで待ってて。五分くらいで行けるから」
 自転車で駅まで行って、戻りは押しながら歩いて帰ってくればいいだろう、と考えながら返事をした。
『じゃあ待ってるねー』
 と電話が切れるのを確認してから佐奈も電話を切る。
 すぐに、さっき出かけたときに持っていたトートバッグをそのまま持って玄関を出た。


「梢……何その荷物……」
 改札口の側に立っていた梢に挨拶するよりも先に、足元に置いてあった大きなキャリーバッグに目が行った。
「あ、これ? 彼氏と別れてきたから、あたしの荷物」
 事もなげに言ってのける梢に、佐奈は目を瞬かせるしかできなかった。
「……うち、布団ないけど」
「大丈夫大丈夫。明日には出てくから心配しないで。でも、今夜は都合がつかなくてさー」
 梢はぽかんとしたままの佐奈の手と、反対の手にキャリーバッグの引き手を取り、
「さ、行こ」
 と歩き出した。

「あ、コンビニ寄って行かないと……ジュースとかあったほうがいいでしょ?」
「うんうん、あ、おかまいなくね」
「うん、まあ、布団ないから座椅子と毛布だし……あんまりお構いしないけど」
 佐奈の言葉に、やだなーと言いながらけらけら笑う様子は、恋人と別れたばかりだという雰囲気には少しも見えなかった。
「あの……えっと、……別れたって……」
「うん? うん、一緒に住んでた彼氏。でも他に好きな人できちゃってー」
「えっと、え……うーん……」
「二股かけるのはあたしの主義に反してるからねっ。ちゃんと別れて次に行くのよ」
「……へえ……」
 何と返事をしていいのかわからずに、ただぼんやりと相槌を打つしかできなかった。


 何となく深く追求することもできず、また、佐奈は梢に追求するという考えも持たなかったので、その話はそれきりになり、お互いの近況を報告し合いしながら佐奈のアパートについた。
 佐奈がすすめた座椅子に腰を下ろしながら、
「ていうか、佐奈って彼氏できたりした?」
 と、何の脈絡もなく梢が言い出したせいで、佐奈は飛び上がりそうになるほど驚いてしまった。
「ええっ……な、何、急に……なんで…っ……?」
「あ、否定しないから当たりでしょー」
 このこの、と小突いてくる梢の手を軽く振り払う。
「や、ちょっと…なんでそういうことに……」
「だって、これ。ちっちゃいけどけっこう目立つもん。かわいいしー」
 と、ブラウスの襟元を指差す。
そこには小さなクローバーが白く輝いていた。
「佐奈って自分でこういうの買ってつけるタイプじゃないじゃん」
 当たっているだけに、何も言い返せない。
 ただ口をぱくぱくさせるだけで上手い言い訳は考えつかなかった。
「どんな人ー?」
 屈託のない問いかけに、渋々と答える。
「……うちに…さくら園に来てる、カウンセラーの先生……梢も知ってるかもしれない、人……」
 ぼそぼそと呟く佐奈の言葉に、梢は大袈裟に頷いて瞳を輝かせる。
「ええーっ、誰、誰っ?」
「わたしたちがいた頃にはもういなかったけど、……さくら園の先輩で、麻野先生……麻野宏紀先生って人……」
「あさの……あー! わかるわかる! 園長先生の自慢の『麻野君』でしょ!」
 そうそう麻野君、ともう一度繰り返して笑う。
「あたし見たことあるよ! 背高くてカッコイイ人じゃない? なんかキレイな顔した人。たまーに遊びに来てたよ」
「あ…う、うん……」
 自分の恋人にあたる人を格好いいと言われて、なんだか照れるような恥ずかしいような気持ちになる。
「へえー、佐奈が彼氏かぁ。大人になったねえ」
 などと言って、子どもにするかのように佐奈の頭を撫でた。
「……そういう…ことでも……」
「でもなんか、雰囲気変わったなってちょっと思ったんだよ、さっき会ったとき」
「え……そ、そうかな……なんか、違う?」
 熱くなった頬を隠すように手で覆って、梢の顔を覗いた。
「んー、具体的に何かってわけでもないけど、そうだなー」
 当てはまる言葉を探すように、梢は瞳をくるくると動かす。
 その様子を見守りながら、佐奈は梢の言葉を待った。
「……うん、女っぽくなった、って感じかな。……ちょっとだけだけどさ」
「……ちょっとだけって…なんか……うーん……」
 それがいいことなのか悪いことなのか、佐奈には判断がつかずにため息をつきながら、さりげなく襟元を直すふりをして紅く残った口づけの痕をそっと服の下に隠した。