Man and Woman

clover

20.

 朝から何度目かの欠伸を噛み殺しながら、涙目で中庭に目をやる。
 結局、梢とのおしゃべりに時間を忘れてしまって、寝たのは朝方近い時間だった。
 睡眠不足の状態では集中力が途切れがちになる。

 ……とりあえずお昼まで我慢……。

 そう思いなおして頭を軽く横に振ってまたパソコンに向かう。
 先週から新しく入所してきた子のための書類を作成し、園長の判をもらってこなければいけない。
 今日中には投函してしまいたい書類だった。

 ふと、視界の隅で動く影に気がつき、そちらに視線を移す。
 中庭の隅で小さな人影が動いていた。
「…あれ……」
 事務室の窓からはやや離れていたが、先日入所してきたばかりの女の子であることがわかる。
 月曜の昼間に、小学生の子がここにいることは滅多にない。
 佐奈は作成中の文書を保存してから、玄関に向かった。



「梨花ちゃん……だよね? どうしたの?」
 側によって声をかけると、びくりと体を震わせる。
「………」
「えっと、……あ、わたし、事務にいる…佐奈っていうの。よろしくね」
 佐奈が笑顔を作っても、相手は警戒するような表情を浮かべたままだった。
 自分と似たようなショートボブの髪を見ながら、ぼんやりと自分の子どもの頃のことを思い出す。
「……学校には、まだ行きたくない? ……わたしも、そうだったなあ。転校したばかりって、なんか、気が進まないっていうか……そういうの、あるよね」
 佐奈のその言葉に、少し表情を和らげる。
「わたしも、子どもの時にここにいたから。……梨花ちゃんと同じくらいかな」
「……そう……なの……」
「うん。学校行きたくなくて、よく泣いてたなあ。一日中、お庭で時間潰してたこともあったよ。……ね、こっちおいで」
 手招きして歩き出すと、佐奈の後ろについてくる。
 中庭の隅でしゃがみこんで、梨花に向かって笑いかけた。
「ここでね、クローバー探してたの。四葉のクローバー……知ってる?」
 梨花は小さくこくん、と頷いて佐奈の側に同じようにしゃがみこむ。
「見つけたら幸せになれるっていうから、一生懸命探したの」
 佐奈の脳裏にそのときの光景が浮かんでくる。
 夏の照りつける日差し。
 青く澄んだ空の色。
 濃い緑の茂み。
「……見つかった?」
 小さな問いかけに、笑顔で答えた。
「うん、見つけたよ。梨花ちゃんも、探してみよう?」
 佐奈の言葉を聞いてから、梨花はクローバーの茂みを見つめた。



 夏休みになる少し前だった。
 中途半端な時期の転校生は、教室で異質の存在となってしまった。
 もともと引っ込み思案で人見知りな性格もあって、クラスに上手く馴染むことができずに、学校に行くのが嫌になった。
 朝、学校に向かう子どもたちの背中を見送りながら、中庭に入る。
 一緒に暮らしながらここで働いていた母が心配そうに見ていることも知っていたけれど。
 ……早く夏休みになったらいいのに。
 そう考えながら、クローバーの茂みに座り込んだことを覚えている。

 あの日、……誰かがいた。
 自分以外の誰か。
 母も施設にいたはずだが、母ではない。
「何、探してるの?」
 声をかけられたけど、顔を上げずにいた。
 ただ緑の茂みの中を必死で探していた。
「……あ……あった……」
 小さく呟いたあと、ぐらりと地面が揺れたように感じた。


 ……そのあと、覚えてないんだよね……あれは、誰だったんだろう……。

 三つ葉の茂みの中、やや時期はずれの白い花がちらほらと咲いている。
 指先で葉をかき分けながら、梨花の方を見た。
 彼女は四葉を探すことにすっかり夢中になっているようで、少し安心したような気持ちになる。
「あ……」
「えっ」
「あ…ちがった……」
「なかなかないよねー……でもこうやって探すのもけっこう楽しいんだよね」
 小さくこくんと頷く顔は、先ほどよりもずっと穏やかで、微かに笑顔が見えていた。


 腕時計をちらりと見ると、昼休みが終わろうとしている。
 佐奈も昼食を取ることを忘れて四葉探しに夢中になっていた。

 ……梢、お弁当食べたかな……。

 朝、佐奈が家を出る時間でも起きることのできなかった梢に、自分のものと同じ弁当を用意し、合鍵を置いてきた。
 昼休みに電話しておこうと思っていたが、今のところそれもできないでいる。
「あっ」
「あっ…あった?」
「うん……あった……」
 ぷつりと小さな音を立てて、梨花の手の中に四葉のクローバーが収まる。
「わあ、ほんとだ。すごいねえ」
 梨花の手の中を覗いてそう言うと、うれしそうに微笑んだ。
「……ありがとう……」
「ううん、……ね、おなか空いてきてない? お昼ご飯、何か作ってもらおうよ」
 立ち上がって手を差し出すと、その手を梨花の小さな手が握り返す。

 ……手、細いな……。

 玄関まで歩きながら、ふとそんなことを思った。




 午後一時を少し過ぎた頃に、事務室に戻った。
「梢にも、電話しなきゃ……」
 梢の電話番号を呼び出して通話ボタンを押した。
『…もしもし』
「あ、梢? わたしだけど」
『うん、あ、お弁当ありがとー。おいしかった』
「よかった。梢は夜どうするのかなって」
『あ、うん。鍵、新聞入れから中に戻しておくのでいい? 夕方からバイトなんだ』
「うん、いいよ」
『佐奈、……また、会える?』
 ほんの少し、いつもの梢の声色と違うように感じたが、どこがどう違うのかはわからないまま、
「うん、もちろん」
 と答え、電話を切った。



 その日の夜、電話で話した時の梢の声にどこか引っ掛かりを覚えたことを、ベッドの中で思い出す。
 もう普段なら眠っている時間だった。

 ……あんなこと、あまり言うほうじゃないと思うんだけど……。

 どこか飄々として、面倒なことからは素早く遠ざかる。
 そんな梢は佐奈とは正反対とも言える性格ではあるけれど、一緒にいて嫌な気分になることはなかった。
 なかなか寝付けない夜ではあったものの、昨日の梢の様子やさくら園で一緒に過ごした頃のことなどを思い返しているうちに、眠りに落ちていった。




 次の日、佐奈は意味もなく壁の時計を何度となく見上げた。

 ……今日は、先生が来る日だけど……。

 時計を見上げると、午後四時を少し過ぎた頃だった。
 麻野の穏やかな笑顔を思い浮かべる。
 胸の奥が小さくくぼむような甘い痛みが走った。
 はあ、と小さくため息をついて、またパソコンの画面に視線を戻した。


 退勤時間にタイムカードを通し、それから給湯室で麻野に出すためのコーヒーを落とした。
 トレイにカップを載せてカウンセリング室に向かうと、少女が一人そのドアから出てくるのが見えた。
「あ……梨花ちゃん」
 佐奈の声にぱっと顔を上げる。
「あ……えっと、佐奈さん」
「佐奈ちゃんでいいよ。みんなそう呼んでるし」
「……佐奈ちゃん」
 小さな声ではあったが、昨日初めて会ったときのような警戒する様子は見られなかった。
「今日、カウンセリングだったんだね」
「うん。……このお部屋にも、クローバーが……佐奈ちゃんのだって、先生が……」
「あ、うん、そうだったの。梨花ちゃんのと同じところで見つけたんだよ」
「あの……あたしのも、あんなふうにできる? 昨日からお水に入れてるんだけど……少し元気がなくなってきちゃって……」
「できるよー。うーんと、明日でもいい?」
 事務室に回収に出し損ねた古い電話帳があったはず、と考えた。
「うん。……ありがとう」
「ううん、どういたしまして。じゃあ、また明日ね」
「うん、また明日」
 その梨花の笑顔に少し安心する。
 きっとあの子は大丈夫、と思いながらカウンセリング室のドアをノックした。