Man and Woman

clover

22.

 鏡に映った自分の身体をぼんやりと見つめる。
 首の付け根のあたりに、小さな紅い痕が浮かんでいる。
「……先生の意地悪……」
 こんなところにつけなくても、とため息を零す。
 襟の低い服だとどうしても目に付く場所だった。
 もう一度大きくため息をついてから、服を脱いでバスルームに入った。


 こんなふうにしていていいんだろうか、という迷いや不安が浮かんでくる。
 それでも、自分の裸を目にするだけで、その肌の上を滑る麻野の指や手のひらの感触を思い出してしまう。
 顎先が浸かるほど体をバスタブに沈めて、体の奥から発する熱なのか風呂の熱なのか、自分でもわからなくなるまで体を温めた。





 二日後、またいつもと同じようにカウンセリング室のドアをノックする。
 もう何度こうやってこの部屋に来ただろうと考えた。
「どうぞ」
 その声を聞いてからドアノブを回し、その中に入った。
「お疲れさまです」
「お疲れさま」
 麻野の穏やかな微笑みは佐奈の心を温かさで満たしていくのと同時に、体のどこか奥深くで熱く疼くものを生まれさせる。
「あ……今日はスーツなんですか?」
 いつものカジュアルな服装と違い、麻野はワイシャツとスラックスの姿で椅子に座っていて、作り付けの本棚に引っ掛けられたハンガーにはジャケットが掛かっていた。
「ああ、うん。明日、僕のいた大学で学会があってね。その準備を手伝ってきたんだ。偉い人にも会うからスーツじゃないとならないってね」
 と、肩を竦める。
「先生も、何かなさるんですか?」
「いや、本当は見るだけのつもりだったんだけどね。行くと言ったら手伝わされちゃって」
 そう言って苦笑する麻野につられて佐奈も少し笑った。
「あさっては、佐奈はどう?」
「あ……えっと……」
 また誘われているのだと理解するまでに少しの時間を要して、自分はまだ慣れていないなと再認識する。
「もしよかったら、また……でも、気が進まないなら無理は言わないけど」
 そう言って、佐奈が机に置いたマグカップを手に取り、口をつける。
「いえ、全然、大丈夫です」
 と返事をしてから、先週麻野の部屋で過ごした時間のことが頭に浮かび、その後どう言えばいいものかわからなくなってしまった。
 麻野は、口をつぐんでしまった佐奈の手を取り、そっと引き寄せる。
 俯いた佐奈は、座ったままの麻野の肩に顔を埋めるような格好になった。
「……じゃあ、また誘っても?」
 耳元で囁くような声に、たまらなくなって目を閉じる。
「……はい……あの……」
「何?」
「……一緒にいてもらえるのは、……うれしいんです」
「……そっか」
 背中を抱いていた麻野の手が、佐奈の頭を撫でた。
 目を閉じてゆっくりと髪を撫でる手の温もりを感じる。
 何もかも投げ出して、この手に全てを委ねてしまうことを想像してみる。

 ……わたしには、できそうもないけど。

 恋人となったと言えども、佐奈はまだ抱きしめられたり肌に触れられたりすることに幾ばくかの罪悪感を持っていた。
 ため息が零れそうになったのを誤魔化すために、ぱっと顔を上げて明るい声を上げた。
「あのっ、わたし、何かごはん作りますっ」
「えっ……あ、あさって?」
 突然の佐奈の言葉に麻野はやや面食らったような表情を浮かべてから、またいつもの微笑みに戻った。
「はい、あ、そんなに難しいものは作れないんですけど……普通のメニューならだいたい大丈夫ですし」
「へえー、うれしいな。でもうち、全然料理しないから、調味料から揃えなくちゃならないなあ。……あさってってより、明日来る?」
 今度は佐奈が面食らう番となった。
「えっ…と……明日ですか? ……先生、明日学会があるって……」
「夕方までね。佐奈はどう?」
「わたしは……夕方からなら……」
 土曜日にはたいてい母の墓参りをするのが習慣であったが、とくに予定がなければ夕方にはアパートに戻っていた。
「じゃあ、どこかで待ち合わせでもして、買い物に行こう」
「……あの、ええと……」
 麻野は口ごもる佐奈の頬をそっと撫でてくすくすと笑った。
「泊まっていけるね?」
 一人暮らしなのだから、外泊しても誰に文句を言われることもないし、迷惑をかけることもない。
 それでも男性の部屋に泊まるということに、佐奈の心臓が跳ね上がる。
「……あの……はい……」
 佐奈の返事を待ってから、唇が重ねられた。
「……ん……」
 僅かな隙間から佐奈の声が漏れる。
 ゆっくりと絡まる舌。
 口内に流れ込む唾液は媚薬のように甘く、その痺れが体全体に広がって動くことができなかった。
「……明日、か。……本当に、いいの?」
 唇を離して、麻野がふと呟いた。
「……あ……はい……」
 断る理由もなかったし、断る気もなかった。
 それでも、麻野とともに夜を過ごすということに強い緊張と恥ずかしさと、少しの期待を感じて頬が紅潮していく。

 ……わたしは…何を期待してるんだろ……。

 そんな自分の感情がまた恥ずかしく感じて、麻野の顔をまともに見ることができなかった。




 待ち合わせた駅の構内に着くと、もう麻野が待っていた。
「すみません、お待たせしちゃったみたいで」
「いや、だってまだ約束の時間じゃないし。こっちはちょっと早く終わったんだ。……今日は車じゃないから、面倒だけど」
「全然、電車とか慣れてますから」
 首を振る佐奈の言葉に穏やかに微笑む。
「ここから四駅だから。駅前にスーパーがあるからそこで買い物していこう」
 と、佐奈の手を握る。

 ……あたたかい……。

 心のどこかにある小さな罪悪感をかき消すように、佐奈は顔を上げて笑顔を作った。
「先生の好きなもの、作ります。何がいいですか?」
「何がいいかな……好き嫌いは特にないから、佐奈の得意料理でもいいし」
「……得意と言うほどのものはないんですけど……」
 ホームに降りると程なくして電車が滑り込んでくる。
 土曜日とはいっても夕方の車内は込み合っていて、ふたりはドアの側に立った。
 自然と寄り添うような格好になり、目の前にある麻野の胸元に訳もなく動悸が高まっていく。
「じゃあ、ひとりではあまり作らないものはどうかな?」
「えーっと、シチューとかカレーとか……煮込み物はたまに作って冷凍したりはしますけど、食べきるのはちょっと大変だったりします」
「ああ、シチュー食べたいな。最近涼しくなってきたし」
「いいですよ。……お口に合うかどうかわかりませんけど」
「大丈夫だよ。この前のお弁当も美味しかったしね。……っと、大丈夫?」
 電車が揺れた拍子にバランスを崩した佐奈の背中を麻野が支えた。
「あ、すみません、大丈夫です」
 顔を上げると、自分を見下ろす麻野と目が合った。
 その瞳がやさしく細められ、背中を支える手に引き寄せられて今まで以上にふたりの体が密着する。
「佐奈は小さいから、満員電車だと辛いだろうな」
「あ、はい……それもあって、自転車通勤なんです。自転車でも行けなくない場所ですし」
 極力普通に返事をしたつもりだったが、少し声が上ずってしまった。
 恥ずかしくて俯いた佐奈の髪を麻野の手がそっと撫でた。