23.
麻野の部屋のキッチンに入った佐奈は、想像以上の物のなさに閉口した。
「……先生、本当に何もされないんですね……」
「うん、まあ、言った通りでしょ? お湯沸かしてコーヒーやお茶を淹れるくらいだなあ」
麻野は苦笑しながら冷蔵庫からビールを取り出した。
冷蔵庫の中身も、缶ビール数本とワイン、チーズなどのつまみが少し入っているだけだった。
「……そうですね……」
辛うじて鍋や調理道具は最低限のものがあったが、ほとんど使われていないだろうと思えた。
「足りない物なんかあったら買ってくるけど、大丈夫?」
缶ビールのプルタブに指をかけつつも、開ける寸前で佐奈に聞いた。
「あ、大丈夫です。なんとか……食器とかは、どちらに?」
「ああ、ここに入ってる。引き出物とかでもらった物ばっかりで……一度洗ったほうがいいかもしれない」
と、戸棚を開けると、いくつかの箱がしまわれていた。
「あ、じゃあ洗っておきます」
「よかった」
安心したような笑顔を見せて缶ビールを開ける麻野につられて、佐奈も笑った。
「余った調味料はどうしましょう? 置いていっても使わないんじゃ邪魔なだけですし……」
包丁で野菜の皮を剥きながら首を傾げた。
「佐奈が使ってくれるなら、置いていってもいいけど」
「……はあ……えっと……」
麻野の言葉を理解しかねている様子を見て、くすくすと笑う。
「佐奈が気が向いたときだけでも、うちでご飯作ってもらえるなら置いていって」
「あ、……そっか、……はい」
麻野は、恥ずかしそうに俯いて手だけ動かす佐奈を見て笑う。
「皮剥くの上手だなあ。……見ててもいい?」
「そんなに面白いこともしませんけど……」
「いや、シチューってどうやって作るのかなあって思って」
「先生、中学とか高校の家庭科でやらなかったですか?」
「うーん、全然覚えてないなあ……サボってたのかも……どうした?」
ぽかんとした顔をした佐奈を見て、不思議そうにする。
「あ、いえ、先生も授業真面目に聞いてなかったりしたんだなあって思って……なんだかちょっと意外」
「そりゃあ、少しくらいはあるよ。…佐奈はきっと園長先生の大袈裟な話を聞いちゃってるから、そう思うんだよ」
肩を竦める麻野を見て、つい笑いがこぼれる。
「そうなんですね。なんだ、先生もけっこう普通ですね」
「どんなだと思ってたんだろう、佐奈は」
「どんなって……でも大体想像通りです」
「いいのか悪いのか、よくわからないな」
と、首を傾げて笑う。
「先生はリビングでゆっくりしててくださいね」
「じゃあ、そうさせてもらうかな」
と、佐奈の頬に軽くキスをしてからリビングに向かった。
麻野の唇が触れた頬をさすりながら、キッチンカウンター越しにその背中を見送った佐奈は、頬を赤く染めたまま、まな板の上に目を移した。
しばらくして、出来上がったホワイトシチューを揃いのスープ皿に盛り、サラダとパンを添えて並べる。
この部屋にはダイニングセットがないため、リビングのソファにふたり並んで座った。
「なんだか簡単なものになってしまいましたけど」
「全然。すごい、おいしそうだな。いただきます」
口に入れた瞬間、嬉しそうな表情になる麻野の顔を見て、佐奈はくすぐったいような気持ちでスプーンを取った。
後片付けを済ませてリビングに出ると、麻野はキッチンカウンターからはよく見えない位置にあったソファに横たわっていた。
「あれ……先生……?」
胸の上には開いたままの冊子が伏せられた状態で置かれていた。
「……記憶障害……」
冊子の表紙に書かれた文字を何気なく口にした。
具体的にどんなことなのかは、佐奈にはよくわからない。
「……今日の学会で発表があった論文だよ」
突然口を開いた麻野の声に、佐奈は飛び上がりそうなほど驚いた。
「先生、起きてたんですね……」
「ああ、ごめん。驚かせちゃったね。論文読んでたら眠くなってきちゃって」
と、苦笑いしながら起き上がった。
「この実験に参加してたんだ」
「……あの……それって……」
佐奈は麻野の隣に腰を下ろした。
「うん、ちょっと子どもの頃の記憶が一部ね。……ほら、火事に遭ったって話をしただろう? その時の記憶がないんだよ」
こめかみの辺りを指先で突付くような仕草をする。
「あ……そうなんですか……」
「催眠療法だとかいろいろ受けたんだけどね。かかりにくいタイプだったみたいで、結局今でも思い出せないままなんだ」
記憶がないというのはどういう感じだろうと想像してみる。
忘れてしまいたい記憶というものだってある。
佐奈にとって子どもの頃の記憶、とりわけ父親に関する記憶はできることなら忘れてしまいたいものだった。
「事故の捜査にも関わることだったから、警察のほうでもいろいろやってくれたんだけどね」
あれだけの怪我を負うほどの事故だったにも関わらず、どこか他人事のように話していたのはそのせいだったのかと気づく。
「それって……そういうのって、……どこかで思い出したくないって思ってるからなんでしょうか」
麻野はそっと佐奈の髪に触れた。
「そうなんだろうね、きっと。……それか、何か自分に都合が悪いことがあるのかもしれないし」
さらさらと頬に髪がかかる。
佐奈の肩に麻野の手が伸びた。
「忘れてしまいたいことなんかは、かえってなかなか忘れられなかったりするんですけどね……」
「そうだね。でも、思い出せないっていうのも、けっこう厄介なもんだよ」
「……そうかもしれませんね……」
ゆっくりとした動作で引き寄せられ、そのまま麻野の胸に体を預けるような格好になった。
シャツ越しに麻野の体温が伝わる。
「……佐奈の忘れてしまいたいことって、何?」
「わたしは……」
一瞬、思いついた言葉を口にするのを躊躇う。
そっと髪を指で梳いていくその感触に、胸が熱くなりたまらない気持ちになる。
目を閉じてそっと息を吐き出した。
「……全部…子どもの頃のこと……全部忘れてしまって、全く別の人間になれたらって……時々思ったりします。……そんなこと、できるわけないし……そんなこと、考えちゃいけないって思うんですけど……」
目頭がつんと熱くなる。
自分はなんて身勝手なことを考えてるんだろうと嫌になる。
もっと辛い思いをしている人間はいくらでもいる。
それでも、なぜ自分がこんなに辛い思いをしなくてはならないのかと考えてしまうこともある。
父に暴力を振るわれた記憶。
母が父に殴られるのを見たときの記憶。
普通の幸せな家庭で育っていけたらよかったのに。
学校で同級生と一緒にいるときなどに、そう考えることも度々あった。
それは今まで誰にも話したことのない自分の嫌な部分だった。
「仕方がないよ。佐奈はずっと辛いのを我慢して、がんばってきたんだ」
その言葉に顔を上げると、やさしく微笑む麻野の顔があった。
普段よりもやや熱を帯びたその視線に呼応するように、佐奈の奥深い場所が熱く疼き出す。
「……先生……」
「今だけなら」
と、言葉を切って佐奈の唇と自分のそれを重ね合わせる。
「……今だけなら、忘れさせてあげる。何も考えなくていい……何も考えられないくらいに抱いてあげる」
唇を触れ合わせたままで囁き、舌を割り込ませた。
目を閉じて口づけを受けていると、自分がどこか深い場所へと堕ちていく映像が脳裏に浮かんで消えていく。
それでももう、後戻りはできなかった。
服の下に隠れている熱く火照った肌は、麻野の愛撫を求めている。
……わたし…どうなっちゃうの……。
ブラウスのボタンをひとつずつ外していく麻野の指が肌に直接触れるのを心待ちにしている自分がいる。
「あ……!」
胸元に触れられるだけで電流のように快感が走る。
「……今日はずいぶん、敏感みたいだね。……待ってた?」
下着ごと手のひらで包み、胸の膨らみを柔らかく揉む。
指先で頂きを転がすように摘むと、佐奈の口から小さな叫び声が漏れた。
「……そんな…ことは……あ…っ……」
「何も悪いことじゃない。もっと求めていいんだよ? もっと求めて……もっと感じて」
背中に手を回し、ブラのホックを外す。
肌蹴たブラウスと下着を脱がせて、胸に手を伸ばした。
「…ふ…あ……っ……」
「もっと僕を感じて……ずっと、忘れることのないくらいに……」
背中を抱いていた手が軽く爪を立てて下へ滑っていく。
その動きにあわせるように佐奈の背中が弓なりに仰け反った。
「あ……せんせ……」
麻野は佐奈の手を取り、小さな火傷の痕に唇を這わせた。
「…っ……」
火傷の痕は淡い紅色に変わり、傷の記憶は甘い痛みを伴う口づけの記憶に塗り替えられる。
……すべて忘れて……今だけ……今だけは……。
押し殺していた想いが、与えられる快楽によって溢れ出していく。
麻野の肩に縋りついていた手に力が篭る。
「……先生……」
麻野は胸元に口づける動作を中断し、佐奈を見上げた。
「……言ってごらん。ここには誰もいないから……僕だけだから」
佐奈の心を見透かしているような囁きに、思わず首を振る。
「悪いことなんてないんだよ。……ほら、佐奈の体はこんなにも僕を求めてる」
口づけられた部分から体中が濡れていくような錯覚がする。
胸の先端は指先で触れられただけでつんと形を変え、まだ触れられてもいない脚の間からは自分でもわかるほど熱い蜜がにじみ出ていた。
「……先生…っ……先生…好き……好きです……」
うわ言のように零れ落ちた言葉は、麻野の愛撫をより激しいものに変える。
今だけ、今この時間だけは。
すべて忘れて、何もかも消してしまって。
頭の中ではその言葉だけが呪文のように繰り返されていた。