Man and Woman

clover

24.

 髪を撫でていた手がふと離れた。
「……先生……?」

 抱きかかえられて寝室に行き、何度めかの絶頂を迎えたあと、静かに抱きしめられた。
 自分を包み込む温もりがあまりにあたたかく感じて、涙が零れた。
 そんな佐奈を麻野はやさしい微笑みを浮かべて見つめていた。

「大丈夫だよ。お風呂用意してくるだけだから」
 麻野は、不安そうな表情を浮かべる佐奈の頬を撫でてベッドから出た。

 まだあまり動けないままの佐奈は、手を伸ばしてタオルケットを引き上げて裸の体を隠す。
 体の芯がまだ熱っぽく感じる。

 ……先生が、好き……わたしは、先生が好き……。

 身体に触れられながら何度となく口にした言葉を頭の中で繰り返した。
「佐奈」
 ドアの方から呼びかけられて、そちらに目を向ける。
「もう動けそう?」
「ん……はい……」
 のろのろと起き上がろうとする佐奈の様子を見て、麻野は少し笑った。
「いや、無理しなくていいよ。今夜はずっと一緒にいられるんだし」
 と、佐奈のすぐ側に腰を下ろして佐奈の髪を撫でた。
 佐奈は目を閉じて麻野にされるがままにしていた。

 穏やかな時間。
 この時間がずっと続けばいいのに。

 そう思いながら、どこかで胸がざわつく。
 ただ漠然とした不安が佐奈の中に絶えず存在している。
 抱きしめられても、何度口づけを交わしても、肌に触れられても。

 ……不安になることなんか、ないのに……。

 顔を上げると今もそこには佐奈を見つめるやさしい微笑みがある。
 今さっきも、佐奈のことを激しく求め、狂おしく愛撫した手が、佐奈の髪をゆっくりと撫でている。
「……どうした?」
「……え……?」
「泣きそうな顔したから」
 そっと頬に触れる手が温かかった。
「え……そんな、ことは……大丈夫です」
 そこで言葉を切って、少し躊躇いがちに目を伏せた。
「……ただ、……先生が、好きって……思っただけです」
「僕も、佐奈が好きだよ。……愛してる」
 佐奈を抱き上げ、抱きしめた。
 抱きしめられたまま深く息をして、シャツ越しに伝わる温もりや微かな匂いを確かめた。

 恋をするということ。
 自分には縁のないことだと、どこかで思っていた。
 こんなふうに男性に抱きしめられている自分を想像したこともなかった。

「……なんだか、不思議……自分が、自分じゃないみたい……」
 そう呟くと、麻野の肩が震えた。
 笑っているようだった。
「佐奈は、佐奈だよ」
「そう……なんですけど……」
 体を離して、唇を軽く合わせた。
 いつの間にかごく自然に口づけに応えることができるようになっていた。



「佐奈? 入ってもいいかい?」
「え、えと…はい……」
 体も髪も洗い終わった佐奈は、浴槽に身を沈めて、ドアの側の麻野に返事をする。
「……佐奈、溺れるよ」
 ドアを開けてバスルームに入ってきた麻野は、口元まで湯に浸かった佐奈を見てくすくすと笑ったが、佐奈は目のやり場に困って顔を湯の中に沈めてしまいそうなほど俯いた。
 ちらりと見えた麻野の肌には、火傷の痕がまだ生々しく残っている。
「……やっぱり、恥ずかしいです……」
 目を合わせられない理由を作って下を向きっぱなしの佐奈だったが、そんな佐奈の考えを見透かすように、
「佐奈の裸だったら今さらだし……僕の方も別に、気にすることないよ」
 と、軽やかに笑う。
 その顔を見て、眼鏡を外している顔を見るのは初めてだ、と思った。
「き、気にしますよ……」
「ああ、男の裸ってあまり見ることなかったかなあ、佐奈は」
 その体は見る間に泡に包まれていき、それだけでも佐奈は少しほっとする。
「そうです……そうなんですっ……」
「こういう痕があるとどうしてもびっくりされるし……これでもだいぶ治したんだけどね」
 確かに、脚のほうはほんの小さな引きつりを残すのみで、綺麗な肌になっていた。
「……治療、大変ですか?」
「まあ、保険利かないってところが。時間もかかるしね」
「………痛かった、ですか」
「治療のこと?」
 麻野の言葉に首を横に振る。
「……そりゃあ、まあ。気がついたら病院で、体中火傷を負ってて……どうしてこんなことになってるのか、全然覚えてないし。しばらく高熱も続いて。記憶は飛び飛びなんだけど、これで死ぬのかって思ったことは覚えてる」
「そう……ですよね……」
「佐奈がそんなに悲しそうな顔をすること、ないのに」
 髪を洗いながらいつもと同じ笑顔を見せる。
「でも……痛いのは、嫌です……誰だってそうでしょう?」
 いつの間にか涙声になっていた。
 麻野は俯く佐奈を見て、少しの間黙って髪を流した。
「……ねえ、佐奈。僕は君を悲しませたくない」
 タオルで髪を拭きながら、穏やかな口調で話しだす。
「佐奈を悲しませるなら、僕の話はしないでおこう」
「や……違います……っ」
「でも」
「わたし……先生のこと、もっと知りたいんです。……それは、変ですか? いけないことですか……?」
「……いけないことではないよ。……わかった。でもそろそろ出ないと、のぼせるよ?」
 もう真っ赤になった佐奈の頬を指先で突付く。
「あ……はい……」
「話の続きは、またあとで。そこにバスタオル用意してるから」
 と、ドアの方を指差し、交代、と言って笑った。


 柔らかなバスタオルで体を包み込む。
「あ……着替え……」
 バスタオルと一緒にTシャツとハーフパンツが用意されていたが、下着はリビングに置いた自分の荷物の中に忘れてきてしまった。
 仕方なくバスタオルを体に巻きつけてリビングに出た。

 ショーツをはき、Tシャツを着たところで麻野がバスルームから出たらしき物音が聞こえてきた。
 佐奈は慌ててハーフパンツを身につけた。
「……ああ、よかった。それ、わかった? さっき言い忘れてた」
 スウェットパンツだけを身につけた麻野が、髪を拭きながらリビングに入ってくる。
「あ、はい。ありがとうございます。……パジャマも、持って来てはいるんですけど……」
「今度からは、女の子用の部屋着も用意しておいた方がいいかな」
 Tシャツの中で体が泳いでしまっている佐奈の姿を見て、少し笑った。
「や……もう、先生、意地悪です……わたしが小さいからって……」
 麻野は笑って、ふくれた顔をする佐奈の頭を撫でた。
「小柄なのもかわいくていいと思うけど」
「……本当はもう少し大きくなりたかったです……」
 麻野は、拗ねた表情をする佐奈を心底可愛いとでもいうような笑顔を浮かべてから、
「何か飲む? 喉乾いたでしょ」
 と、キッチンの冷蔵庫を開いた。
「……あーでも、佐奈が飲めるようなものって水くらいしかないなあ……」
「あ、お水でいいです」
「さっき買い物行ったときに何か買っておけばよかったな」
 グラスにミネラルウォーターを注ぎながら肩を竦める。
「いえ、全然、いいんです。あの、お構いなく」
「僕が構いたいんだよ」
 と言って、佐奈にグラスを手渡した。
「ええと、でも、その……普通で、いいですから」
 そう困った顔をする佐奈を見て、また笑う。
 その穏やかな笑顔に、佐奈の胸が締め付けられるように感じた。

 ……なんだろう……どうして……?

 そのとき麻野は冷蔵庫から取り出したビールの缶を開けたところだった。
「先生、さっきも飲んでましたよね。お酒、強いんですね」
 ソファに腰を下ろすと、麻野も隣に腰を下ろした。
「そうでもないよ。でも家では酒ばっかり飲んでるなあ。一人暮らしはじめた頃からずっとそうなんだ」
「そうなんですか……あ、えっと、職場だとそういうの、わからないから……」
 すぐ隣で見つめられるとやはり恥ずかしいようなくすぐったいような気持ちになってきて、だんだんと俯いてしまう佐奈の濡れた髪を麻野の指が梳いていく。
「汗引いたら髪乾かしておいで。洗面所にドライヤーあるから」
「あ、はい。先生も使いますよね。今、いってきます」
 立ち上がりかけた佐奈に、また麻野はくすくすと笑って
「僕はこのままでも、少し経ったら乾くから大丈夫だよ」
 ゆっくりしてていいから、と言葉を続けた。
「はい、……ありがとうございます」
 そう返事をして洗面所に向かった。


 髪を乾かしてリビングに戻った時、麻野は何か錠剤のようなものを取り出していた。
 佐奈の不思議そうな視線に気づいた麻野は、手のひらの上の小さな粒を佐奈に見せた。
「睡眠剤だよ。すごく弱いやつだけどね」
 佐奈はなんと返事をしていいのか迷い、ただ目を瞬かせた。
「どうもね、こんな弱い薬でも、飲まないと寝付けないんだ。……もう寝るでしょ?」
 そう言われるとさっきから眠気を感じていたことに気づき、正直に頷いた。
「……それは、ずっと……ずっと、そうなんですか?」
「うん、ずっと。火傷が治ってさくら園に入ったくらいのときからかな」
 そう言って冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出し、グラスに注いで飲み干す。
「じゃあ、寝ようか」
 と、佐奈に向かっていつも通りの微笑みを見せた。
 その瞬間、佐奈は涙が出そうになった。
「……先生は」
「うん?」
「先生は、……いっぱい辛いことあったのに……いつも、……わたしにだけじゃなくて、誰にでもやさしくて……そうやってやさしい顔して笑ってくれて……」
「たいしたことじゃないよ」
 麻野の言葉に首を横に振った。
「わたし……何もできなくて……わたしが何かなんて、そんなこと……先生は、必要ないって思うんでしょうけど……でも……」
 声が震えた。
 麻野は佐奈の側に寄って、佐奈をそっと抱きしめる。
「佐奈は、そのままでいいんだよ。……僕を受け入れてくれただけで、十分なんだ」
「でも……っ……」
 顔を上げたときに、涙が一筋零れた。
 その涙を麻野の指がそっと拭う。
「僕はね、佐奈」
 佐奈の瞳を見つめたまま、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
 その声を一瞬も逃したくないと思った。
「そんなにたくさんのことを望んじゃいけないんだ。……この体だって、本当は生きてただけで奇跡みたいなものなんだし」
「………」
「僕はこの体と引き換えに、自由を手に入れたんだ。それ以上のものは、望めないよ」
 佐奈はその言葉の意味を掴めないまま、麻野の顔がゆっくりと近づいて唇が重なるのと同時に目を閉じた。