Man and Woman

clover

25.

「僕の母親は、本当にどうしようもない人で」
 ベッドの中で佐奈の髪を撫でながら話す口調はいつもと同じ穏やかなもので、やはりどこか他人事を話しているように聞こえた。
「僕の父親が誰なのかもわからないんだ。……まあ、そういう女だったから」
 佐奈はただ黙って聞いているしかできなかった。
「僕を産んだのも、中絶する金がなかったから仕方なく、って何度も聞かされた。一応死なない程度には育ててくれてたよ。でも学校には行ってなかったなぁ。何してたんだろ」
 麻野は全てを語るわけではなかったが、それでもその間にある様々な出来事を想像することは容易かった。
 顔を上げて目を合わせると、麻野はいつも通りの穏やかな微笑みで見返してくれる。
 その穏やかな表情からは、そんな経験をしてきたなんて今まで想像もできなかった。
「仕事は、何をしてたんだか……夜の仕事もしてたみたいだけど。昼も夜も、よく男が部屋に来てた。その都度外に出されてね」
 昼間だけでなく、冬の寒い夜にも。
 まだ幼い子どもがどんなふうにその時間を過ごしたのか、そう考えただけで身震いがして、思わず麻野の胸元にしがみついた。
 そんな佐奈の髪を麻野の指がそっと撫でていく。
「その頃の記憶ってもう事故以来おぼろげなんだけど……ひとつだけ、嫌にはっきりとした記憶があるんだ。十歳のときだった」
「え……」
「アパートの階段下に、ポリタンクを見たんだ。ほんの少し、灯油が入ってた。……これに火をつければ、全部燃えてなくなるんだって思った記憶がある」
 ぞくり、と佐奈の背中に寒気が走った。
「……先生……?」
 自分の思いつきが、ただの想像であって欲しいと願う。
 震える指先を抑えるように、麻野のTシャツの胸元を強く握った。
「そのときは、それだけだよ。それ以外の記憶はないんだ。……でも、あの事故で母親は亡くなって、僕は生き残った。僕が倒れていた周りには、灯油の跡があったそうだよ」
「でも……」
「そう、まだ子どもだし、本人の記憶は全くないし。結局、子どものいたずらが原因の事故ということにされたんだ」
「……そう…ですか……」
 それについてどう言えばいいのか、自分が何か言っていいものなのかどうかも判断することができず、佐奈は一言相槌を打つしかできなかった。
「でも、きっと、そのときの僕は、……母親を殺そうと思っていたんだと思う。もう、今は誰にもそれはわからないんだけど」
「そんな……」
「母親が死んだってことは、事故からしばらくしてから聞いたんだけど、全然悲しくなかったんだ。それどころか、やっと自由になれるって安心したのを覚えてる。……そんなのって、佐奈に言わせたら『いけないこと』なんだろうけど」
 と、肩を竦めて苦笑した。
「そ、そんなこと……でも、なんか……ごめんなさい……」
「どうして?」
「……話したくなかったですよね、先生……わたしが、うるさく言うから……」
「全然。もうずっと前の話だしね。……なんだかもう、自分のことじゃないみたいに思ってるし」
「でも……」
「大丈夫だよ。……そろそろ、寝よう」
「……はい……」
「おやすみ、佐奈」
「……おやすみなさい……」
 佐奈が目は閉じていてもなかなか寝つけずにいるうちに、小さな寝息が聞こえてきた。
「先生……」
 小さな声で呟いて目を開けると、穏やかな寝顔が見えた。

 ……どうして先生は、こんなに穏やかでやさしくできるんだろう……。

 目を閉じてその呼吸と自分の呼吸を合わせてみた。

 自分はどうしてもいつも見えない何かに怯えている気がする。
 その『何か』が自分にもわからない。
 ただ漠然とした不安と恐怖を抱えて生きている気がして、他人に自分の全てを見せたことがなかった。

 ……麻野先生にだけは、……はじめてだった……。

 過去のことも、現在のことも。
 麻野にだけは愚痴っぽいことも零すことができた。
 肌に触れられることも、今までの自分では考えられないことだった。

 ……わたしもいつか先生みたいに、みんなにやさしくできるのかな……。

 目を閉じると、先ほど麻野に抱かれた体の疲れが一気に眠気に変わる。
 眠気に誘われるまま、佐奈は意識を手放した。



 目が覚めたときにはまだカーテンが引かれたままで、ベージュ色の布の隙間から明るい光が差し込んでいた。
 佐奈の部屋のものよりも高い天井に一瞬自分がどこに寝ていたのかわからなくなる。
「あれ……」
「あ、ごめん、起こしちゃった」
 声がした方向を見ると、上半身を起こした麻野が自分を見下ろしていた。
「あ……いえ、あの……おはようございます……」
 自分の置かれている状況を思い出し、ほんのりと頬を赤らめる佐奈の前髪を、麻野の指がそっと梳いていった。
「おはよう。よく眠れた?」
「はい……今、何時ですか?」
「七時半…ちょっと過ぎたところ。まだ寝ててもいいんだよ?」
 起き上がりかけた佐奈にやさしく声をかける。
「でも……朝ご飯、しなくちゃ」
 佐奈の言葉を聞いてくすくすと笑い声を上げた。
「佐奈はいいお嫁さんになりそうだな」
「えっ……いえ、そんな……そんなことないです……でもだって、先生、おなか空きませんか?」
「言われてみれば、って感じかな」
 肩を竦めてそう返事をする麻野に、
「じゃあ、用意します。昨日、お買い物してきましたし」
 と、佐奈は笑ってベッドから降りた。


 昨夜の余韻のせいか、まだ少し体にだるさが残っていたものの、キッチンに立てばそれなりに体は動いて、慣れないキッチンではあったもののいつも通りに朝食の用意をした。
 ふたりで食事をし、食べ終わった食器をキッチンに運んだところで、佐奈は後ろから麻野に抱きしめられた。
「先生……?」
「……ありがとう、佐奈」
「え……いえ……こんなくらいは、全然……」
「佐奈」
 耳元で囁くような声にたまらなくなり、ぎゅっと目を閉じた。
「……また、触れても?」
 掠れた声が耳の中に響く。
 身体の芯のあたりが熱く疼きだす。
「あ……あの、でも……片付けを……」
 そう言いながらも、麻野の声に抗うことができないことを、もう十分に思い知っていた。
「そんな時間も、惜しいんだ。……ずっと佐奈に触れていたいのに」
 後ろから手が伸びてきて佐奈の手を取り、指が絡まる。
 反対の手が腰のあたりをゆっくりとなぞっていく。
「……ん……」
「……佐奈」
 促がすような声に少し首を捻ると、唇が重ねられた。


 佐奈の荒い吐息と、麻野の指が動くたびに起きる水音がひどく淫猥に響く。
 自分の身体から発するその音に耳を塞ぎたくなるが、そんなことは叶わないまま、ただきつく目を閉じた。
「…は…っ……あ……せんせ……」
 胸元に口づける麻野の頭を無意識に抱きかかえた。
 麻野の指は佐奈の体の奥深くをかき回し、それによって溢れ出る蜜が佐奈の肌を濡らしていく。
 麻野の唇がゆっくりと腹を通って、佐奈の脚の間にたどり着いた。
「や…っ……!」
 びくんと体が震える。
 もう何度そこに口づけられているかわからなかったが、それでもまだその行為に慣れるようなことはなく、佐奈は小さな叫び声を上げた。
 麻野は無言のまま、佐奈の濡れた肌を舐める。
 佐奈の手を取り、指を絡めて強く握った。

 ……本当に、これでいいの……?

 上りつめていく意識の片隅で湧き上がっては消える小さな疑問。
 麻野の求めを受け入れることしかできない自分をもどかしく思う反面、それ以外にどうしたらいいのかわからない。
 ただ、繋いだ手を強く握り返す。
「先生…っ……せんせ……」
 うわ言のように麻野を呼びながら、佐奈の快楽は頂点に達した。



「……佐奈」
 荒い呼吸をしながら、上下する白い胸元を麻野が見下ろしていた。
「…あ……」
 言葉にならない声で返事をし、ゆるゆると重い瞼を開ける。
 自分をじっと見つめる麻野と目を合わせ、恥ずかしそうに視線を逸らした。
 その様子に麻野はふっと目を細める。
「……いつか、誰かにそんな顔を見せるのかな」
「え……?」
 麻野の顔を見上げると、その微笑みはどこかひどく寂しそうに見えた。
「僕は佐奈と結ばれることはできないから」
 ずきん、と心臓が痛む。
「……先生……」
「……だから」
 一旦言葉を切ったところで、麻野の表情が変わった。
 微笑みを浮かべていることには変わりがなかったが、今さっきまでよりずっと艶っぽいものになり、佐奈は困惑する。
「ずっと……忘れることができないくらいに、触れて……僕を佐奈の体に刻みつけたい」
 と、佐奈の胸元に指先を這わせた。
「あ…っ……」
 先端を指先で挟み、軽く摘むと、佐奈の口からはまた甘い喘ぎ声が漏れる。
「いつか誰かとこうやって抱き合うことがあっても、そのときに僕を思い出す。……ずっとね」
 固くなった小さな突起を口に含んで舌の上で転がす。
「っ…ああ…っ……」
 麻野の言うように、いつか他の誰かとこんなふうに抱き合うことがあるのだろうか。
 佐奈にはそんなこと想像もできなかったが、かと言って麻野の言葉を否定することも、どうしてかできなかった。