Man and Woman

clover

26.

 その日は夕方までほとんどの時間をベッドで過ごした。
 夕方、食事に出たときには佐奈の体はもう、自分で思うようには動かなくなってしまっていた。
「大丈夫?」
 レストランを出た後も、若干足元が覚束ない佐奈に手を差し伸べて車に乗せた。
「……大丈夫じゃないです……」
「そうみたいだね」
 可笑しそうに笑って運転席に座る麻野を恨めしそうな表情で見上げる。
「先生はなんともないなんて……ちょっとずるいです……」
「じゃあ今度は佐奈に何かしてもらおうかな」
「何かって……」
 どんな行為を指しているのか、佐奈の知識では全く思いつかなかったが、それでも昨夜見た麻野の裸を思い浮かべてしまって、それだけで顔が真っ赤に火照り出す。
 そんな佐奈の様子を見て、麻野は悪戯っぽくくすくすと笑った。
「何想像したの?」
「な、何も……だって、わからないですもん……」
 か細い声で俯く佐奈の頭を撫でて、ハンドルを握った。


「あの……先生」
「何?」
 前を見たままで返事をする麻野の横顔を見上げた。

 朝から浮かんでは消える疑問。
 言い出しにくくてこんな帰り際になってしまったが、やはりどうしても言っておきたいと思い、ようやく口にした。
「あの……わたし、……先生が、好きです」
 最初は、麻野のペースに流されるだけで、自分の気持ちははっきりしなかった。
 しかし麻野と付き合っていくうちに穏やかでやさしい笑顔や人柄に惹かれ、自分を大切にしてくれているという態度に、だんだんと自分も心を開いていった。
「うれしいな。僕も佐奈が好きだよ」
 見上げた横顔は確かに笑っていた。
「だから、……『他の誰か』なんて、考えられないんです。……どうしても……」
 麻野以外の誰かとこんなふうに休日を過ごすことなど、とても考えられなかった。
「……ああ、そのこと」
「だから……そんな意地悪、言わないでください……」
「意地悪で言ってるんじゃないよ。仕方がないんだ。僕は佐奈を愛しているけど、佐奈を幸せにはできないから」
「そんなの……」
「まだ全然考えたことなんかはないだろうけど、佐奈は、結婚して子どもを作って……まあ必ずしもそれだけが幸せではないとも思うけど、でも、そういう幸せはいらないって思う?」
 信号が赤に変わり、車が止まる。
 テールランプに紅く照らされた横顔で、目だけで佐奈のほうを見た。
「え……」
 そんな生活を夢見たことがないと言えば嘘になる。
 いつか出会う誰かと、皆から祝福されて結婚して、子どもを育てる。
 自分が今までそんな生活をしたことがないから余計に、叶えられるものなら叶って欲しい、ささやかな夢ではあった。
「……佐奈を愛しているから、だから佐奈には幸せになって欲しいって思うんだ」
「………」
 どう返事をしていいのかわからずに、佐奈は俯いてしまう。
「それまでは……結婚したいって思えるような相手が現れるまでは、僕と一緒にいてくれるかな」
 信号が青になり、車がまた動き出す。
 それとほぼ同時に、佐奈の目の前に麻野の左手が差し出された。
 少し迷ってからその手に右手を乗せる。
 そっと握られると、胸の奥が同じに握られるような痛みを感じた。



 次の日、仕事をしていてもつい手が止まって麻野とふたりで過ごした週末のことを思い浮かべてしまって、その度に自己嫌悪に陥っていた。

 ……ちゃんとしなくちゃ。仕事なんだから。

 いちいちそう思うものの、なかなかはかどらない。
 はあっと大きな溜息をついて壁の時計を見上げると、間もなく正午になるところだった。
「……今日は食堂でお弁当食べようかな」
 ぽつりと呟いて、バッグから弁当の袋を取り出して事務室を出た。


「こんにちはー、お疲れさまです」
 食堂では、さくら園で働いている二人のシスターが昼食を取っているところだった。
「佐奈ちゃん、お疲れさま」
「一緒にご飯いいですか」
 一人でいるとどうしても麻野のことばかり考えてしまう。
 少し頭を切り替えるには、他の人と話をすることもきっと有効だろうと考えた。
「ええ、どうぞ。お弁当? お茶飲む?」
「あ、はい。ありがとうございます」
 湯飲みを受け取って一口啜ってから、弁当の包みを開けた。
「佐奈ちゃん上手に作ってるわねえ」
 隣に座ったシスターが弁当箱を覗きこんで感嘆の声を上げた。
「え、そうでもないですよー、地味なお弁当でしょ」
「あの小さかった佐奈ちゃんがこんな風に上手なお弁当作るようになったのねえ」
 ここで弁当を食べる時にはいつも言われることだと思い、苦笑する。
「だってご飯くらい自分で作らなくちゃ、お給料足りませんって」
「まあー、それは園長先生に言わなくちゃね」
 そう言ってみんなで笑う、その中にいるのが心地よく思えた。

 ちょうど弁当を食べ終えた時、玄関の呼び鈴が鳴った。
「あ、わたし出ます」
 シスターたちにそう言って立ち上がり、玄関に向かった。
「はい? どちら様でしょうか?」
「……佐奈?」
 ドア越しに聞き覚えのある声が聞こえた。
「あれ…梢? どうしたの……」
 遊びに来たのかなと何気なく玄関のドアを開け、そこに立っていた梢の姿を見た瞬間、声が出なくなった。
 手のひらで隠した頬は赤く腫れ、唇の端は切れたように血が滲んでいた。
 泣きはらしたような真っ赤な目が佐奈の視線を拒絶するように俯いている。

 ……殴られた、痕……。

 いつか見覚えのあるその傷に、ぞくりと背筋が冷たくなり、指先が震えた。
 頭の中が真っ白になり、どうしたらいいのかわからなくなる。
 それと同時に蘇る記憶。
 この玄関先で、梢と同じように傷を受けた人物を、佐奈は今と同じように見たことがあった。

「……梢……どうして……」
 俯いて首を振る梢の目元から涙が零れる。
 そのとき後ろから一番年配のシスターの声が聞こえた。
「佐奈ちゃん? ……梢ちゃん……!」
 梢の顔を見て少し驚いたようだったが、すぐに落ち着いた声で
「……とにかく、中に入って。それから病院に行って手当してもらいましょう。佐奈ちゃん、客室に通してあげて」
 と、立ち尽くしている佐奈に指示した。
「あ……はい……」
 荷物は小さなハンドバッグひとつだけ。
 涙を零しながら佐奈の後ろについて来る梢を、園に一部屋だけある面会者が宿泊できる部屋に通した。
「……傷は、大丈夫……?」
「うん、……ありがと……ごめん、びっくりさせて……ちょっと、ひとりにさせてもらっても、いいかな……」
「あ……うん、何か……欲しいものとか……あったら、事務室にいるから」
「うん、ありがと……」
 そう言って微かに笑顔を作ったが、また涙が頬を伝った。


 事務室に戻ってからもまだ、体の震えが止まらなかった。
 椅子に座って指を組んで、じっと震えが治まるのを待つ。
 その間ずっと小さな子どもの頃のことを思い出していた。

 ……怖い……。

 あの玄関先で見たのは、母だった。
 あの日の朝早くに、母は父に会いに出かけて、次の日に帰って来た時に、梢と同じような傷を作っていた。
 そしてそのすぐ後に母は亡くなったのだった。
 そのことは佐奈の記憶からすっかり抜け落ちていた。

 ……忘れてしまいたいこと……一番大事なことなのに、忘れてしまいたいって……忘れてしまっていたんだ。

 佐奈と目を合わすことがなかった梢の顔を思い出す。
 自分は何をしたらいいのか、何ができるのか、考えるけれど何も浮かばなかった。


 退勤時間が過ぎた頃、梢がいる客室のドアをノックした。
「……はい」
「あ、わたし……佐奈だけど……」
「あ…うん……入って、いいよ」
 ドアをゆっくりと開けると、梢がゆっくりとベッドから起き上がった。
「……ごめん、寝てた?」
「ううん、違うけど、横になってた。……少し、落ち着いた気がする」
 佐奈は梢の顔を正視できず、ドアの側から動けなかった。
「よかった。……ほっぺた、まだ痛い?」
「……少し。でも大丈夫」
 シスターに連れられて病院に行き、いくつかの検査をして異常はなかったことはシスターから聞いていた。
「そっか」
 二人の間に沈黙が流れる。
 いつもずっと、何でも話をしていたはずなのに、今はどんな話をしたらいいのかわからない。
「……あのね……」
「佐奈」
 佐奈の言葉を遮るように、梢が声を発した。
「うん」
「……ごめん、……今は、まだ……何も話したくないの……ごめん……」
「……あ……うん……いいよ……わたしは、梢が元気になってくれたら、それでいいから……」
「ごめん……」
「あの、今日はわたし、もう帰るから……」
 どうしたらいいのかわからないまま、椅子から立ち上がった。
「うん」
「ご飯、こっちに持ってきてもらえるように言っておくから」
「ありがと」
 そこではじめて僅かに笑顔を見せた梢に、少しだけ安心する。
「じゃ、明日ね」
「うん、……じゃあね」
 小さく手を振って部屋を出た。

 自分のことではないけれど、自分のことではないから何もできないでいる佐奈自身が悔しく思う。
 誰も傷つかないでいてほしいのに。
「……どうして……?」
 涙が零れそうな気がして上を向くと、もう日が落ちて紫色に変わった空が霞んで見えた。