Man and Woman

夜明けは沈黙の中へ

01.

 

 目が覚めたら、彼女が消えていた。

 消えていたという表現はなんだかおかしいけれど、まさにその言葉がぴったりだった。
 昨夜もいつもと何も変わらない週末の夜だった。
 彼女の部屋に泊まって、抱き合って眠った。
 何かいつもと違うことがあったかといえば、珍しく彼女のほうから求めてきたということくらいだった。
「……恵麻……?」
 彼女がいたはずのベッドの上を撫でてみる。
 もうぬくもりさえも感じられないシーツの感触に寒気を感じた。
 もう二度と会えないんじゃないだろうか。
 考えたくもないことだけど、ふとそんなことが頭をよぎった。
 
 
 
 恵麻と出会ったのは中三の夏だった。
 受験を控えたオレの家庭教師として、大学三年の彼女が家にやってきた。
 彼女の長い髪や落ち着いたきれいな声にどんどん惹かれていった。
 年が離れていたからきっと相手にしてもらえないと思っていたけど、そんな理由では抑えきれないほどに好きになっていた。


 高校に合格して、家庭教師を辞めるときに、思い切って告白した。
「オレ、先生のこと好きなんだ。……こんなコドモじゃ嫌かもしれないけど」
 普段落ち着いた雰囲気の彼女は、そのときやけに動揺した素振りを見せた。
「遼くん…なんで……そんなこと言うのよ……」
「ずっと、…ホントは、初めて家に来たときから好きだったんだ」
「わたしのこと、なにも知らないじゃない……」
「知らないけど、…まだ少ししか先生のこと知らないけど。でもそれでも好きなんだ」
「わたしはっ…遼くんのことは、好きとかそういうふうに見てなかったから……」
 オレから目をそらして目を伏せた。まつ毛の影がきれいだと思った。
「じゃあっ、これからそういうふうに見てもらえない?」
「無理よ、そんなのっ……」
「オレが子どもだから? 年が離れてたらそんなにダメ?」
 断られてるのはわかってたけど、自分でも止められなかった。
 すがるように彼女に食い下がった。
 みっともないとは思ったけど、それ以上に彼女に振り向いて欲しかった。
「そういう、訳じゃない……そうじゃないの……」
 彼女の目から零れ落ちる、しずく。
「なっ…なんで泣くんだよ……ゴメン、そんなに嫌だった?」
「そうじゃないの…嫌…じゃ、ないの……」
 首を横に振ると、長い柔らかい髪が揺れる。
「……先生…?」
「嫌じゃ、ないの……でも…ダメなの……」
「なんで? 嫌じゃないなら、いいってことじゃないの?」
 オレには全然わからなかった。
 彼女が頑なにオレを拒む理由も、涙の理由も。
「嫌じゃないなら、ちょっとだけでいいから、俺とつきあってよ。つきあってみてダメだったらそれでいいから」
「そんなこと……」
「ダメだったらすぐダメって言って。それでもいいから」
 顔を覆っている手を取って、彼女の濡れた目を見つめた。
 六歳年上だけど、少しあどけなくて、でもとてもきれいで。
 恋愛経験なんかほとんどなかったけど、こんなふうに好きになる女なんかいないって本気で思った。
「ねえ先生…お願いだから……」
「……うん…わかった……」
 こくりと頷いて、小さな声で返事をした彼女の指先にほんの少し唇をあてた。
 その指先が冷たかったのを今でも覚えている。


それから、名前を呼び合うようになるまでそう時間はかからなかった。
キスもセックスも初めてだったから、全然うまくはなかったけれど、恵麻はいつも幸せそうに微笑んでくれた。
「ねえ、恵麻……女って、みんなこうなの?」
恵麻の部屋で初めて抱き合ったとき、彼女の肌の滑らかさに驚いた。
「ん……なにが?」
「こんなふうに、すべすべしてるもん?」
 指先で恵麻の白い肌をなぞっていくと、ため息とともに体を柔らかくくねらせる。
 シーツに広がった長い栗色の髪がさらりと動いた。
 恵麻は華奢な体つきではあったけれど、出るところはしっかりと出ていて……服を着ているときとのギャップに少し驚いたりもした。
「そう…なのかな? わかんないけど……」
 首を少しかしげるしぐさがかわいくて、またキスをくり返す。
「それとも、恵麻が特別? ……前の彼氏とか、なんか言ってなかった?」
 こんなときに元カレの話なんかするもんじゃなかったかな。
 こんな話題を迂闊に口にしたことを少し後悔した。
「……今まで、男の子とつきあったことないから……」
 赤くなった頬を手のひらで隠して、うつむく。
「……うそ」
「本当よ…そんなこと嘘ついてどうするのよ」
 少しむっとしたような口調で言い返す。
「ごめ…でもだって……」
「だって、何?」
「恵麻、すげーキレイだから……絶対彼氏いるって、ずっと思ってた……」
「……遼が、初めてなの……変かな、もう二十一なのにって、思う?」
「ううん、変じゃないよ…うれしい。…でもオレも初めてだから、うまくできないかもしれない…痛かったら、ゴメン……」
「大丈夫。遼とだったら、大丈夫……」
 微笑んで目を閉じた。
 オレはその顔に何度もキスをして、また恵麻の裸の体に触れた。
 やわらかくて、透き通るように白い肌の上には、ピンク色の花びらのようにキスのあとがいくつも残っていた。
 指先でそこに触れると、ため息のような声を漏らす。
「ね、…いい?」
「……ん……」
 恵麻の返事を確認してから、体を重ねた。


 お互いに初めてだったこともあってか、その日は最後までできなかったけど、何度か体を重ねていくうちになじんでいった感じがした。
 ふたりとも平日は学校があったから、親には友達の家に泊まるとか言い訳をしながら、週末を彼女の部屋で過ごした。
 オレは、すごくすごく、幸せだった。この人しかいないって本気で思ってた。


 だけど。
 こんな突然に、……訳もわからないうちに、終わりが来てしまうなんて、思ってもいなかった。
 ゆっくりと部屋を見回す。
 家具つきの賃貸マンションだったから家具はそのままだけど、食器棚の中身も、飾ってあったぬいぐるみも全部消えている。
 オレが寝てるうちに片付けたにしても、おかしい。
 物音に気がつかないほど寝入ってたとは思えないし、そもそも恵麻を抱いたまま眠ってたはずだ。
「…ちくしょう……なんだよ……」
 四月から市役所に就職するって言ってた。
 引っ越すなんて言ってなかったはずだ。
 いや、引っ越すにしたってこんな引っ越し方あるかよ。
 ムカつくとか驚くとか、悲しいとか。
 いろんな感情がいっぺんに湧いてきて、オレはそれをどこにもぶつけることもできずに、ただ部屋の真ん中に立ち尽くしていた。

「エマ?」
 不意に声をかけられて振り向いた。
「ひさしぶりー。元気だった? やっと帰れるわね」
 古くからの友人のメイだ。この子に会うのも久しぶり。
 研修が始まる前だから、四年も会ってなかった。
「ひさしぶりね。……うん、帰るんだね」
「あたし、地上は向いてなかったわ。ゴミゴミしてて疲れたー。なんでこんな研修あるのかしらね」
 そう言って彼女は、背中から真っ白な翼を広げた。



 私たちは人間に「天使」と呼ばれている。
 天使にもいろいろな仕事があるけれど、私たちは「守護天使」となるために生まれてきた。
 人間には必ず守護天使がついていて、その人間を様々な方向へ導いている。
 その仕事をするためには人間の社会や暮らし、考え方などをよく知るべきだということで、二十歳前後になった天使は人間の世界へ研修に降りていくことになっている。
 それぞれの興味関心によって、学生や社会人として四年間を過ごすことになっていて、私は大学生として四年間を過ごした。
 そして、何気なくはじめた家庭教師のアルバイトで、彼に出会った。


 彼の…遼の気持ちは、痛いほど伝わっていたけれど、それに応えることはできないと思ってた。
 私も、遼には好意以上のものを持っていたけれど年の差もありすぎたし、何よりもそのときすでに二年半の研修期間を終えていて、残った時間はわずかだった。
 それまでの私は、他の人間とは深く関わらないようにして過ごしていたし、四年間そうするつもりだったのに、遼のすがるような眼差しにどうすることもできなかった。
 ……違う、私も遼が好きだったから。
 自分の気持ちに嘘はつけなかった。
 ずっと、真っ直ぐに私を見つめてくる瞳に惹かれていた。
 純粋で、強くて、でもどこか壊れやすそうな雰囲気の男の子。
 誰よりも大切な人。誰よりも愛した人。
 遼の全てを思い出しながら、私は翼を広げた。


 私は残酷なのかもしれない。
 4年間の間に私に関わった全ての人の記憶から私のことを消し去って、私は天上へ帰っていく。
 遼だけが私のことを憶えている。
 たったひとり、誰も知らない自分の恋人のことを想って、遼はどうするだろう。
 つらいと思う。苦しむと思う。泣くかもしれない。でも、忘れて欲しくなかった。
 その記憶があれば、もしかしたら……もう一度、会えるかもしれない。
 会うと言えるものではないかもしれない。そもそもそうできるかどうかもわからないけど。
 でも、一縷の望みを託して。私のこと、忘れないで。憶えていて。
「わたしは、…帰りたくないくらいだよ……」
 他の子とおしゃべりしているメイには聞こえないくらいの声でつぶやいた。

 恵麻の部屋を出て、家に帰った。
 どうしたらいいんだろう。
 街で彼女を探して歩くのがいいんだろうか。
 何度携帯にかけても、『こちらの番号は使われておりません』というアナウンスが聞こえるだけだった。
「ただいま」
 朝食の準備をしていた母親に声をかける。
「あらおかえり。早かったのね」
「うん。……本当は、恵麻のうちに行ってたんだけど…恵麻、いなくなっちゃったんだ……」
 ダイニングテーブルに突っ伏して頭を抱えた。
 恵麻の家に泊まってたのがバレるとかそんなこと以上に、誰かに聞いてもらいたかった。
「えま?」
「去年、カテキョに来てもらってた子だよ。つきあってるって言ったじゃん」
「何言ってるの?」
「え?」
 顔を上げたら、不思議そうな顔をした母親の顔が見えた。
「遼、家庭教師なんか頼んでないわよ?」
「……何言ってんの……?」
「何言ってるのって、こっちが聞きたいわよー。あんたに彼女がいるなんて話も聞いたことないし」
 嘘だ。そんなはずはない。ていうか、家庭教師頼んだのはそっちだろう?
「言ったし。ていうか、カテキョのこと、なんで忘れてんの?」
「忘れたとかじゃなくて、だってしてないもの」
 そんなの嘘だ。
 そう思うものの、母親の表情を見る分には、嘘を言ってる様子ではない。
 オレがおかしいのか?
 ……恵麻のことって、本当は全部夢だったとか?
 ……そんなことあるわけない。でも、……わからない。
「……オレ、ちょっと寝るわ……」
「うん、なんかもう寝ぼけてるんじゃない?」
 母はくすくす笑ってまた朝食の準備を始めた。


 自分の部屋に入って、ドアを閉めた。
 ベッドに潜り込んで頭の上から布団をかぶる。
 恵麻のことを憶えていないなんて、そんなはずがない。
 数日前にも少し、彼女の話をしたはずだ。
 それなのにどうして……?
 他に誰か…誰か、恵麻のことを知ってる人はいないだろうか。
 恵麻の大学の知り合いとか、友達とか。
 ……そういえば、共通の友人なんていなかった。
 そりゃあ、年が全然違うから、友達を紹介しあうなんてこともしなかったし……いつもふたりで、ふたりだけで過ごした。
 あの毎日が夢だったなんてこと、あるわけない。
 恵麻の笑顔も笑い声も、肌のぬくもりも、夢なんかじゃない。
 全て昨日までは、昨日の夜までは存在していた。
「……どうなってんだよ……」
 泣くくらいならどうしたらいいか考えるべきだとは思うけど、涙があふれてしかたなかった。