Man and Woman

夜明けは沈黙の中へ

02.

 

 天上に帰って数日後から講習が始まり、大学生活とあまり変わらない毎日が続いた。
 でも、講習の内容も全然頭に入っていかなくて、ぼんやりと過ごすばかりだった。
 彼がいないだけでこんなにも違うものなんだって、実感する。

「……エマ…エマ」
「え?」
 気がつくと目の前にメイが立っていた。
「もう講習終わったけど」
 呆れたような顔をした彼女の後ろに見える講義室には、もうほとんど人が残っていなかった。
「あ、……あ、ごめん……」
「帰ってきてからずーっとそんな調子ね」
 私の隣の席に腰を下ろして、私の顔を見つめる。
「………ん……」
「向こうで何かあったの?」
 メイには言ってもいいだろうか。ばかみたいって思われるだろうか。
「…なんでもないの。ごめん」
 無理に笑ってみるけど、たぶんきっと変な顔になってる。
 きっとメイにはわかってしまう。
「なんでもないわけなさそうだけど?」
 メイが少し首をかしげると、彼女のプラチナブロンドのカールヘアが柔らかく揺れた。
「……ん…まあ……」
「なあに?」
 メイはやさしい顔で話を聞いてくれる。
「………好きだったの。……人間の、男の子」
「なるほど、そういうコトね」
「…うん……好きなの。まだ、……忘れることなんてできない……」
 俯いたら手元がにじんでぼやける。
 私は慌てて上を向いたけれど、目の端から涙がこぼれた。
「うん。こっちは、忘れる必要ないしね。…向こうの記憶は、消さないといけないけど……」
「………」
 一度こぼれだしたら、涙が止まらない。
 ぽろり、ぽろりと、しずくが頬を伝って落ちていく。
「エマ?」
「……できなかったの……」
 私の返事を聞いて、メイはため息をつく。
 きっと、彼女の予想通りなんだろう。
「それ、まずいでしょう……規則違反じゃない」
 研修終了時には研修中に関わった全ての人間から、自分についての記憶を抹消すること。
 研修時の規則で決まっていることだった。
「……うん…わかってるけど……わかってたけど、できなかった……」
 俯いて手のひらで顔を覆った。
 こんなふうに泣くつもりなんてなかった。
 ほんの少しの可能性だけは残っているけど、それでも諦めかけてる。
 諦めてしまおう。忘れてしまおう。
 そう思いかけてるのに、それでも忘れることなんかできない。
 遼の記憶も消してしまった方が、楽だったかもしれない。
 遼にとっても、本当はそのほうが楽だったはず。
 でも。
 ……今はもうどうすることもできないけど、毎日そんなことをぐるぐると考えている。
 メイの手が私の頭を撫でる。
「とりあえずあたしは誰にも言わないようにするけど。でも今、調査中でしょう」
「うん」
 今、研修後の処理がきちんと行われたかどうかのチェックがされている。
 時々うっかり忘れる天使もいるからだ。
 チェックに引っかかった際は、……もう一度地上に降りて、自分で処理をしなければいけない。
「そんなに日にちはかからないはずだけど……」
「うん、たぶんもうすぐ終わると思う」
「エマ……それを狙ってたわけ?」
 私は顔を上げずに小さく頷いた。
 もう一度だけ、遼の顔が見られるから。
 私のわがままだってわかってるけど、それしか方法はなかった。
 ただ一度だけでも、もう一度遼に会えるなら……。
 そのときが、本当の最後だということも、わかっていた。

 恵麻がいなくなった頃に咲き始めた桜が新緑になっても、恵麻が消えた手がかりがつかめないままでいた。
 恵麻がいなくても毎日変わらずに時間は過ぎていくけど、オレの中ではあの日の朝のまま、時間が止まってるみたいに感じた。
 毎日学校の帰りには、遅い時間まで恵麻とふたりで行った場所に行ってみたりした。
 どこかに、恵麻の手がかりがないかと探した。
 それでも、誰も何も知らないと言う。
 恵麻がしょっちゅうケーキを買っていたケーキ屋でも、気に入っていた洋服のブランドの店でも、恵麻のことは誰も憶えていなかった。


「遼、お前、少し痩せた?」
 窓際の自分の席に座って、外を眺めていたときに、同じクラスの高野に言われた。
 実際、食事はあまり喉を通らなくて、かなり体重が落ちてる。
「ああ、うん……」
「あれか、消えちゃった彼女?」
 高野には一度恵麻に会わせたはずなのに、何も憶えていなかった。
 でも、オレの言ってることをおかしいとも言わずにいてくれた。
 そのことはありがたいとは思ってる。
 下手をすれば、どっかおかしくなったとか思われかねない。
 それくらいオレは思いつめていた。
「……うん」
「うーん、オレ、ホントに全然憶えていないんだよ。悪いけど」
 申し訳無さそうな顔をする高野から目をそらして、また外を見る。
 窓の外には初夏らしい、澄んだ青空が広がっていた。
「うん。……なんでかわかんないけど、仕方ないよ」
「……お前も、忘れるしかないよ」
「……それができたら、楽だろうけど」
 また涙が出そうになるのを堪える。
 俯いて頭を抱えた。

 忘れることができたら、楽になれる。
 そんなことわかってる。
 でも、忘れることなんかできない。
 あんなに好きになった女は今までいないし、きっとこれからだっていない。
 思い込みかもしれないけど、オレはそう思ってる。
 第一、恵麻がいなくなる理由すらわからないんだから、別れるなんてことも納得できるわけがない。

 地上での研修についてのレポートを書き終えた頃、大天使ラグエル様に呼び出された。
 ラグエル様は、私たち天使を監視する役目を担っている。
 研修後の処理のチェックについての責任者でもある。
 ……予想したとおりになったということだ。
「君を呼び出したのは、研修後の処理についてのことだけど」
「……はい」
「君の存在の記憶を持った人間がひとりだけ、残っていたんだ。心当たりはあるかい?」
 ラグエル様は手にしたファイルに目を通しながら、私に問いかけた。
「……いえ、…そう…でしたか……」
 心当たりどころか、遼のことは故意だったけれども、そんなことは言えない。
「…そうか。ついうっかりということもあるから、それについてはあまり気にしなくてもいい」
「はい…申し訳ありません」
「でも、これは君が片付けなくてはいけないことだから、近いうちに手続きをして、地上に行くように」
「…はい」
「必要な書類はわかるかい?」
「はい、たぶん…大丈夫です」
「……地上に降りるには、いろいろと出さなくてはいけないものが多いけれどね、」
 ふと、ラグエル様が言葉を続けた。
「まあ、足りないものがあっても、あとからでもなんとかなるから」
「……はい……」
 自分ではきちんと手続きを済ましてから地上に行くつもりでいるけれど。
 遼のこと、うっかりしたミスだと思われているんだろう。
 研修中にどのような付き合いがあったかまではチェックされないからだ。
「誰か、一緒に行ってもらった方がいい。親しい友人とか、いるかい?」
「あ、はい…頼んでみます」
 メイに頼んで、一緒に行ってもらおう。
 ……そのほうが、私にとっても心強いと思う。
「うん、じゃあ今日はこれでいいよ」
「はい、失礼します」
 軽く会釈をして、ラグエル様の部屋を出た。


「ああ、やっぱり呼び出しくらった?」
 メイは少し呆れたような顔で、地上に降りるための書類に記入していく。
「……うん」
「彼に会うのは、これが最後になるわね。…会うと言っても、向こうにはこっちの姿は見えないけれど」
「…うん……」
 今回は『天使』として地上に降りるから、遼からは私の姿は見えることはない。
 遼の記憶から私のことを消すだけ。
 ただ、それだけの作業だった。
「……つきあってたの?」
「…うん」
「そっか。あたしは人間にはあまり興味を持たなかったから、そんなふうに思う人間に会わなかったけど」
「…私も、そのつもりだったんだよ」
 誰かと仲良くなっても、一緒にいられる時間は限られてる。
 親しくなると絶対別れるのがつらくなる。
 それなら、親しくならないようにするほうが楽だった。
 実際、遼以外の人と別れることはそんなにつらいとは思わなかった。
「エマ、書き終わった?」
「…うん」
「じゃあ、出しに行こう。もうすぐ事務所閉まっちゃうよ」
 メイが立ち上がる。
 3日後、……これが最後。
 遼の笑顔が浮かんだ。
 大好きだった。……今でも好き。
 でも、もう最後だ。



 夜明け前、地上に降り立つ。
 もう街は動き出していた。
 今の私たちの姿は、人間には見えないようになっている。
「メイは、どこの国にいたんだっけ?」
「ん、イギリスに行ってたわ。エマは日本に来てたのね。ここはどうだった?」
「案外、悪くなかったと思ってるわ」
 そんな取り止めのない会話をしながら、私は迷わずに遼の家に向かう。
 遼はまだ眠っているはずだ。


「ここね?」
「うん。……ここ」
 遼の部屋に入っていく。
 何も変わらない遼の部屋。
 相変わらず散らかしたままの机の上に少し苦笑する。
 家庭教師やってた頃もこんなふうに散らかしてて、毎回掃除することからはじまってたっけ。
 遼が眠ってるベッドに目をやると、毛布が小さな山のようになっているのが見えた。
 この子はいつも、丸まるようにして眠るんだ。
 遼と離れて二ヶ月くらいだけれど、全てが懐かしく感じた。
 毛布とシーツの隙間に見える遼の寝顔。
 少し痩せた感じがする。
 ……きっと、私のせいだ。
 ごめんね。つらい思いをさせてしまったね。
「…遼……」
 指先で頬に触れる。
「エマ。…時間はあまりないのよ?」
 メイが急かすように言う。
 地上にいられるのはほんの少しの時間だけだ。
「うん。……ごめん、ちょっとだけ、ふたりにしてもらっていいかな?」
「……じゃあ、あたし外で待ってるから」
「…ありがとう」
 部屋からメイが消えた。


 もう一度、遼の顔を見つめた。
「ごめんね……もう、苦しまなくていいから……」
 もっとしっかりと遼の顔を見ていたいのに、目の前がにじんでいく。
 ぽろぽろと涙がこぼれていく。
 そっと指で遼の前髪をかきあげる。
 短い黒髪がぱらぱらと落ちる。
 その髪に私の涙が落ちて、染みこんでいく。
「……さよなら、遼……」
 唇を重ねた。
 以前と変わらない柔らかい唇。
 遼とは何度キスしただろう。
「私は、忘れないから。……ずっと、好きだから……」
 これでもう、遼は苦しむことはない。


 部屋を出て、メイの側に向かう。
「エマ……」
「…うん。……終わったよ…ありがと」
 メイが私の頬に手を伸ばして、涙をぬぐった。
「エマも、忘れることよ」
「……うん……」
 メイは泣きじゃくる私の肩をそっと抱いてくれる。
「……帰ろう」
「……うん」
 もう一度振り返って遼の家を見たけど、涙でかすんでほとんど見えなかった。

 目が覚めたら、なんだかわからないけどすっきりした気分だった。
 最近あまりきちんと眠れてなかったのが、久しぶりにぐっすりと眠ったようだった。
 ……でもオレはどうして最近眠れてなかったんだろう?
 最近痩せたのはどうしてだったっけ?
 わからない。思い出せない。
 なんだか大切なものを失くしたような、でもその大切なものが何か思い出せなくてモヤモヤする。



「なあ高野、オレ、なんで痩せたんだろ?」
 学校で、友人の高野に聞いてみる。
「お前、自分の体だろ? オレが知ってるわけないだろ」
 それもそうだ。
 この喪失感はなんだろう。
 でも何を失くしたんだろう。
 思い出すこともできなくて、ぼんやりと毎日を過ごしていくうちに、そのことについて考える時間も少しずつ減っていった。

 泣いても泣いても、涙は枯れることがなくて、それでも少しずつ冷静になっていった。
 ふとした拍子に遼のことを思い出して涙がこぼれることも、少しずつ減っていった。
 それでも、忘れようと思うほど忘れられなくて、胸が苦しくなるばかりだった。


 ひとつ、決めたことがある。
「わたし、……地上に降りようと、思う」
 メイにだけ、つぶやくように言った。
「……本気で言ってるの?」
 メイは驚いた顔で言った。
「うん。本気」
「だって、向こうの記憶は消したんでしょう? エマのこと、憶えてないのよ?」
「…うん。でも、そうしたいの。……そばにいたいの」
「こっちには戻って来れないのよ?」
 じっと私の目を見つめる。
 メイのような友人も何もかも捨ててまでするべきことかと言われたらわからないけれど、今、地上に降りなかったら、あとで後悔するように思う。
「……うん。わかってる」
 メイは大きなため息をついた。
「手続きは済ませたの?」
「……堕天に必要な書類は提出した。あとは受理されるのを待つだけ」
「そこまで思いつめてるとはね」
「うん、自分でも……こんなにも大きくなるって思ってなかった」
 天使にも運命と言うものがあるなら、これがきっとそうなんだと思う。


「…ラグエル様」
「エマだね。入りなさい」
 ラグエル様の部屋に入ると、先日提出した書類を手にしたラグエル様が立っていた。
「書類は見たよ。不備はなかった」
「はい」
「最終的な決断を聞くために呼んだんだが…本当に行くんだね?」
 深い藍色の瞳が、私の目を見つめて問いかける。
「はい」
 迷わずに返事をする。
「こちらには戻って来れないのは、わかっているね?」
「はい」
「君のほうからはこちらへのコンタクトはとれないようになるけれど、それもわかっているね?」
「はい」
 私の返事を確かめるように聞いてから、ラグエル様はもう一度書類に目を落とす。
「君の守護天使は、君の友人にやってもらうことになるから」
「…はい」
「では、2日後の夜明けに地上に降りるように手配しておくから。…元気で」
「はい、ありがとうございます」
 お辞儀をして顔を上げたら、ラグエル様はやさしく微笑んだ。



 夜明け前。
 地平線のあたりが少しだけ明るくなってきている。
 地上に降りる時間が近づいていた。
「エマ!」
「……メイ! 来てくれたの」
「うん。見送りくらいさせて」
 メイのほかにも数人の友人達が地上との出入り口まで来てくれた。
「…ありがとう」
「エマの守護はあたしがすることになったのよ」
 と、メイが笑う。
「ホントに? うれしい」
「ちゃんと言うこと聞くのよ?」
「あはは、了解しました」
 そのうちに、空が白みはじめた。
 時間が近づいてくる。
 出入り口の門はこの時間にしか開かない。
 ゆっくりと門が開きはじめた。
「じゃあ、行くね」
 みんなの顔を見ながら、私は翼を羽ばたかせる。
 この翼も、これが最後だ。
「元気でね」
「時々、様子を見るね」
 みんな口々に別れの言葉を口にする。
「うん、ありがと。……みんなも元気でね」
「エマ。……幸せになるのよ」
 と、メイが微笑んだ。
「うん。ありがとう。……さよなら」
 私は静かに微笑んで、門の外に降りた。



今日から人間として生きていくことになる。
もう戻れない。
でも、きっと後悔しない。
それだけは確信していた。