Man and Woman

エキセントリック

01.

 

 大学の門を通って構内に入っても、目当ての建物はまだまだ目に入らない。
 全国的に見てもかなり広い敷地を誇る構内を少し早足で歩いていた。
 道の両側には自然に近い状態で木々が生い茂り、まだ朝のこの時間にすでに高い太陽の光が緑の葉の間を通り、キラキラとした木漏れ日を作っている。
 受験ではじめてこの大学に来たとき、特急を降りた札幌駅にも近い場所にこんな森のような大学があることに驚いたのを覚えている。
「つむー、つむぎー」
「あ、おはよう」
 立ち止まって名前を呼ばれた声の方を見ると、クラスメイトの美結と和可菜が手を振ってこちらに近づいてきた。
「おはよー。つむもこれから?」
「うん、一緒じゃないかな? 美結たちも英語だよね?」
「うんうん」
「来週テストやって夏休みだよねー。つむは実家に帰るの?」
 そう言われて実家のある道東の小さな町のことを思い出す。
 どこに行くにも遠くて、親に車を出してもらわないと出かけられないような町だった。
「うーん、バイトあるし、あんまり帰れないかな」
「そっかー、じゃあさ、夏休み中にみんなでそこでバーベキューやろうよ」
 和可菜がぱんぱんと手をたたいて楽しそうに木陰になった一角を指さした。
 春に入学してから、構内でバーベキューをしているグループは何度か見たことがあった。
 この大学は学生や職員だけが出入りするわけではなく、観光地にもなっているし市民の憩いの場でもあり、犬の散歩をしている人やジョギングをしている人もよく見る。
「いいねー、やりたい!」
 そう笑って返事をしたとき、道の向こう側を歩く男の人の姿が目に入った。
「あ、あの人」
「あ、同じクラスの人だよね……」
「あの人、全然話したことないなぁ」
「わたしも」
 私たちと同じ方向に向かっているけど、ずっと早足で歩いていくからもうリュックを背負った背の高い後ろ姿しか見えない。
「どこ出身って言ってたっけ?」
「うーん、顔合わせとかも出てないんじゃないかなぁ。全然記憶にない」
 大学に入ってクラス分けされて三か月が経っている。
 それでも今クラスメイトが三人いて三人とも名前すら覚えてないっていうのは、ほぼ誰ともコミュニケーションをとっていないということだろう。
「まあ、あたしたちも行こう」
「そだね」
 少し歩く速さを上げて、目当ての建物に向かった。


 講義室に入ると、講義室の端にさっきの彼が見えた。
「同じ授業か……」
 ノートなどを広げているわけではないけど、ややうつむき加減で周りのことは見ていない。
 耳にはまだイヤホンが入っているのが見える。
 私はまっすぐ彼に近づいて、そのイヤホンを指で引っ張った。
「えっ……」
 驚いたような顔で私を見上げる。
 初めてくらいにまともに彼の顔を見た気がする。
 わりと色白で鼻筋が通った端正な顔立ちだ。
 前髪を下ろした髪型やシンプルなTシャツと黒パンツの服装は意外と、というと失礼になるのかもしれないけど、あか抜けて見えた。
「おはよう」
 慌てて私を追いかけてきた美結が私の背中を叩いた。
「ちょ、つむぎっ」
「ご、ごめんねー、急に。つむ、行こ」
 和可菜が彼に声をかけながら私の腕を引いて、彼と離れた。

「何やってんのよ、びっくりするじゃん」
 彼の席とは反対側の端に三人で座って、和可菜が大きくため息をついた。
「うん、なんか……なんとなく」
 肩をすくめてもう一度あの人の方を見ると、またイヤホンを着けなおして頬杖をついてうつむいていた。
「向こうもめっちゃびっくりしてたよね」
「そりゃ、いきなりイヤホン引っこ抜かれたら誰だって驚くよ」
「そうだよね……なんか、気になって」
 私が首をかしげると、美結が笑った。
「まあ、不思議くんだもんね」
「でも、まともに顔見たのはじめてくらいだけど、案外イケメンかも」
 と言う和可菜に、
「あー、それ! 思った!」
 美結が大きな声を上げたところで先生が講義室に入ってきて、その話はそこで終わった。


 夕方少し遅い時間までは大学の食堂で勉強しながら時間を潰して、それから市内で一番の歓楽街にあるカフェバーのアルバイトに出る。
「おはようございます」
 裏口からキッチンの脇を通りぬけて更衣室に入る。
「おはようございまーっす」
 もう薄暗くなる時間でも、こういう仕事では『おはようございます』とあいさつをするということをこのアルバイトを始めてから知った。
 高校生のころはアルバイトはしたことはなかったし、そもそも実家のある小さな町にこんな店があるのかどうかも知らない。
 白シャツと黒パンツの制服に着替えてタイムカードを押し、キッチンに出る。
「おはようございます」
 もう一度キッチンにいる人やフロアに出る人に声をかけながら、自分もフロアに出る。
 開店して一時間ほどの時間だけど、もう店内の席はほとんど埋まっていた。
「宮澤さん、おはようございます」
 カウンターから、バーテンダーの叶野さんが私に声をかけた。
「あ、おはようございます」
「今日はけっこうお客さまが多くて。忙しいかもしれないけど」
「あ、はい。がんばります」
「つむぎちゃんは早くに仕事に慣れてくれて助かってるよ」
「ありがとうございます」
「早速だけど、これ、五番テーブルさんにお願い」
 細長いグラスに注がれたきれいなピンク色のカクテルを軽くステアして、トレイに乗せた。
「はい」
 広い店ではないけれど、座り心地のよい椅子とやわらかな照明が居心地よく思われるのだろう、常連のお客さまも多い。
 私はまだ未成年だから叶野さんが作るカクテルを飲むことはほとんどなく、今までで二回ほどノンアルコールのカクテルを飲ませてもらったくらいだ。
「お待たせいたしました」
 女性グループのテーブルにカクテルを運び、またカウンターに戻る。
 その間に注文を受けて叶野さんに伝え、またカウンターやキッチンからドリンクやアペリティフをテーブルへ運ぶ。
 その繰り返しではあるけれど、合間には常連さんと少し話をしたりして、四時間ほどのアルバイト時間はあっという間に過ぎていく。
「宮澤さん」
 カウンターの中から叶野さんが私に声をかけた。
「はい」
「今日、上がる時間同じだね」
「あ……はい」
 ざわざわとした店内で私だけに聞こえるくらいの声で伝えられるその言葉は、合図だ。
 叶野さんはちょっと微笑んでから、また注文されたカクテルを作るためにシェーカーを振る。
「宮澤さーん、こっちの洗い物お願いできる?」
 キッチンから店長に声をかけられて、
「はいっ、今行きます」
 と返事をして、私はキッチンに入った。


 退勤のタイムカードを押して、着替えを済ませる。
 来た時と同じようにキッチンを通り過ぎて
「お疲れさまでしたー」
 と声をかけながら、裏口から店を出た。
 小路から大きな通りに目をやると、たくさんの人が楽しげな声を上げながら歩いて行くのが見えた。
 昼間は夏のような暑さになっていたけど、夜はひんやりとした風が体温を奪っていく。
 Tシャツから出た腕を軽くさすりながら、なにげなく真っ暗な空を見上げた。
 繁華街のビルの隙間からは星もよく見えない。
 小さくため息をついたとき、また裏口のドアが開いた。
「お疲れさま」
 叶野さんが出てきて私に微笑みかける。
「お疲れさまです」
「行こうか」
 するりと自然な動作で私の手を取って指を絡める。
 叶野さんはやさしくて、たぶんすごく女の子の扱いが上手くて、既婚者でもあるけど、二か月前からは私の彼氏だ。
 左手の薬指にはシンプルだけど洒落たリングがはめられている。
 彼はそのリングを隠したり外したりすることもなく、私と手を繋いでいる。
「会いたかったよ」
 叶野さんはそんな言葉を簡単に口にすることができる。
 私はただ少し笑って見せるだけだ。
 手を引かれるまま、繁華街から少し外れたところにあるラブホテルへと連れて行かれる。
 断る理由はなかった。