Man and Woman

エキセントリック

03.

 

 朝、講義室に入ると窓際の一番後ろの席にあのイヤホンの彼がいた。
 私は少し考えてから、彼の方へと歩いて行く。
「おはよう」
 と声をかけても、イヤホンのせいか聞こえていないようで、私の方は見ない。
 仕方なく昨日と同じように、イヤホンを引っ張って耳から引き抜く。
「おはよう」
「……何すんだよ」
「あ、しゃべった。ちょっと、隣座っていいかな」
 私は彼の返事は待たずに、空いていた彼の隣の席に腰を下ろした。
「昨日、すすきのにいた?」
「……あんたに関係ないだろ」
 そう返されて、私は首をかしげて
「まあ、そうなんだけど」
 と返事をする。
 確かめたところでなにかあるわけでもない。
 確かめるなら昨夜あのときに振り返って見たらよかっただけのことだ。
「じゃ、いいや」
 と立ち上がったときに、
「あれ、彼氏?」
 とイヤホンを耳に入れながらつぶやくように言うのが聞こえたから、私は彼を見て少し笑う。
「あんたに関係ないじゃん」
 その言葉は、たぶん彼には聞こえていない。


「ねぇ、つむ。さっきイヤホンくんと何しゃべってたの?」
 授業が終わって講義室を出ると、後ろから美結が背中を叩いた。
「全然、会話になってないよー。美結、お昼食べに行こう」
 『イヤホンくん』という表現に少し笑ってしまう。
 把握している彼の特徴なんてそこくらいだ。
「いいけど、どうしちゃったの、つむ」
「なにが?」
「つむ、わりと人見知りだと思ってたけど」
 と美結が笑う。
 美結が言う通り、私だってほとんど決まった人としか話さない。
 誰ともしゃべらないとか『イヤホンくん』のことはあまり言えない。
「んー、なんだろ、だってずっとしゃべったことないのも変かなって」
「別に向こうがしゃべる気ないなら無理しなくても良くない? なんか、変わってる感じだし」
「まあ、そうなんだよねぇ」
 結局名前だって知らないままだ。


 テスト週間には、テストだけではなくレポート提出の締め切りもある。
 手持ちの資料では足りなく感じたものがあり、調べてみると大学の図書館に資料があるようだったので、それを探しに行った。
「……また、いる」
 図書館の奥の閲覧席に、あの『イヤホンくん』が見えた。
 今まで学内で見かけたことなんて授業のときくらいだったし、特に気がつくこともなかったのに、先日からやけに目につく。
 頬杖をついて、なにか分厚い本を見ている。
 そしてやっぱり耳にはイヤホン。
「こんにちはー」
 わざと彼の視界に入るように、本と顔の間で手をひらひらさせて見せた。
 あからさまに彼は嫌な顔をする。
「……何か用?」
 イヤホンを片方だけ外して私を見上げた。
 私は机を挟んで彼の向かい側に座る。
「クラスメイトじゃん」
「別に、話すこともないし」
 嫌そうな顔をするけど、睨んできたりするわけではない。
 そもそも目を合わせない。
「そうかもだけど。名前は? 『イヤホンくん』じゃあんまりでしょ?」
「なんだそれ」
「だから、名前なんていうの?」
「……花岡。花岡朔」
「わたしは宮澤つむぎ。友だちはつむとかつむぎって呼ぶかな」
「宮澤さん。用事ないならもう」
 イヤホンを耳に入れながら視線を手元の本に戻そうとするから、
「待って待って。どこ出身? 地元?」
「そういうの聞いてなんになる?」
「隠してなんになる?」
 私がそう返すと、嫌そうな顔をして大きくため息をついた。
 そのとき、ちらりと私の方を見て、目が合った。
「……東京」
 札幌にあるこの大学に東京から来ている人はあまり多くない。
 地方出身者ももちろんいるけど、大半は道内出身だ。
「へえぇ、いいね」
「いいか?」
「わたし、めっちゃ田舎だから」
「興味ない」
 そう言い放ってイヤホンを耳に入れて、ボリュームを上げるのかスマートフォンを操作した。
「ま、いいや。じゃあね」
 椅子から立ち上がる私のことはまったく見ない。
 私は少し肩をすくめて、自分の必要な資料があるはずの棚を探しに行った。



 週末を挟んで、テスト週間は朝から午後までテストや小論文を書く時間が続く。
「もう疲れたー」
 和可菜は学食のテーブルに突っ伏して泣き言をこぼした。
「まだ月曜日だよ」
 私と美結とで笑う。
「全然できなかったー。勉強したんだけどなぁ」
「大学のテスト、むずかしいよね」
 教養とは言っても高校までの勉強とは少し違う。
「つむ、午後は?」
「第二外国語。フランス語」
 お昼ごはんのために買ってあったパンの袋を開けた。
 美結と和可菜はお弁当を広げる。
「あたしは中国語だから別々だね」
「フランス語のテスト終わったら図書館行ってくる。明後日提出の近代文学のレポートまだ全然できてないんだよね」
 パンをかじりながら肩をすくめると、美結が心配そうな顔をする。
「えー、大丈夫? あたしはもうちょっと」
「あたしもう終わったよ」
「え、和可菜終わったの? 意外……」
「あたし国語はわりと得意なんだわ」
「詰まったら和可菜に聞くわー。感想文とか苦手」
 とため息をついて見せると、さっきまでしおらしくなっていた和可菜が笑顔を見せた。
「いいよぉー、教えてあげるよ」
 パンを口に詰め込んで、スムージーで流し込む。
「よし、フランス語もまだあやしいからちょっと先に行って勉強してるわ。またね」
 と、立ち上がる。
「うん、がんばって」
「またね」
 まだお弁当を食べているふたりに手を振って学食を出た。

 講義室にはまだ誰もいない。
 窓際三列目の席に腰を下ろした。
 フランス語のテキストとノートを広げて眺める。
 テキストの確認をしているうちに、徐々に学生が集まってきて講義室がざわざわしてくる。
 一度顔をあげてドアのほうを振り向いたとき、イヤホンくん……花岡朔の姿が見えた。
 その瞬間目が合うけれど、すぐに彼のほうから目をそらす。
 その両耳にはやっぱりイヤホンが入っているのが見えた。
 私も特に気にすることなくテキストに視線を戻した。
 
 フランス語のテストが終わってみんな一斉に講義室を出るときに
「花岡くん!」
 と声をかけた。
 だけどやっぱりテストが終わってすぐにイヤホンをした耳には、私の声は聞こえないらしい。
 追いかけて肩をたたくとやっと振り向いた。
「フランス語一緒だったんだね、おつかれさま」
「何?」
 ほかにも数人同じテストを受けていたクラスメイトたちが私と花岡朔を順に見て不思議そうな顔をしながら、私にだけ
「おつかれさまー」
 と声をかけて行った。
 その間、花岡朔はうつむいてスマホをいじっている。
 イヤホンは外さなかった。
「なんで?」
「は?」
 仕方がなさそうに片耳だけイヤホンを取って聞き返す。
「なんで、誰ともしゃべったりしないの?」
「なんであんたに説明しなきゃならないわけ?」
「変わってるなって、みんなそう思ってるから」
 それを聞いて、花岡朔は少しだけ口角を上げた。
 目元は笑っているようには見えなかった。
「別に、それで構わない」
「面倒じゃないの?」
「あんたみたいなのがいるのは面倒だけど」
「わたし?」
「誰もいちいち気にしないだろ。今までそうなんだから」
「あー……そうだね。でも」
「何」
「ひとりはつまらなくない?」
 花岡朔はそんな質問をする私の方がおかしいとでも言うように少し首をかしげて、
「ひとりは自由だ」
 と答えた。
「……そっか」
「じゃ」
「あー、うん。また明日」
 花岡朔は返事をしないで、またイヤホンを耳に入れて背中を向けた。

 夏のギラギラした日差しを木陰で避けながら図書館へと歩く。
 ひとりで歩くときは、友だちと歩くときよりも早くなる。
 トートバッグの中でスマホの通知音が鳴った。
 立ち止まってバッグからスマホを取り出しかけて、
『ひとりは自由だ』
 と言った花岡朔の言葉を思い出して、手が止まる。
 ほんの少し目を閉じてからスマホを取り出して、美結からの
『フランス語どうだった?』
 という他愛もないメッセージに返信した。


 月曜の夜のカフェバーはお客さまがほかの曜日より少ない。
「今日、三十分早くあがっていいよ」
 と店長に言われた。
「あ、はい」
 普段は切れ間なくカクテルを作っている叶野さんの手も、今日は休む時間もできている。
「月曜だし、みんな給料日前だし」
 と叶野さんが笑う。
「そうですね」
「テストなんだっけ? 宮澤さん」
「はい、そうなんです。早く帰って勉強します」
 私は肩をすくめて苦笑いをして見せた。
 レポートはこのアルバイトまでの四時間ほど図書館にこもって書評などを見ながらなんとか仕上げた。
 それでもそのせいで明日のジェンダー論なんてまだ全然勉強できてない。
「がんばって」
「ありがとうございます」
 と返事をしたところでお客さまから呼ばれてテーブルに向かう。
 叶野さんとの会話はそれっきりだった。