Man and Woman

エキセントリック

05.

 

 扉が開いたときに全部のフロアのボタンを押してから箱から出た。
 早足でフロントに向かって、呼び出しベルをせわしなく鳴らす。
 さっきよりは早くフロント奥のドアが開いて花岡朔が顔を出した。
「ちょっと、かくまって」
 私の顔を見て驚いた顔をして目をぱちぱちと瞬かせたその表情は、いつもの無表情よりも少しあどけない少年っぽさが見えた。
 ついさっき叶野さんもこんな顔をしたけど、印象の違いにひとりで笑ってしまう。
「は? なんであんた……何笑ってんだよ」
「ちょっとね。いいから、そこ入れて」
 花岡朔はいつものしかめっ面に戻ってエレベーターの方を見て、そしてフロントカウンター横のパタパタと開くスイング扉を開けた。
 その中に私はかけこむ。
 エレベーターの位置を示すランプは、私がボタンを押したせいでひとつひとつ止まっていて、今はまだ三階で止まっている。
「ありがと」
「なんなんだよ、あんた」
 フロント奥のドアを開けると、その向こうは事務室であり休憩室でもあるらしい。
 花岡朔以外には誰もいないようだった。
 そう広くもない部屋に事務机と椅子と、ソファとローテーブルがひとつずつ。
 その向こうに給湯スペースの小さなキッチンと、小さな窓があった。
 炭酸飲料のペットボトルが事務机に置いてあるのは、彼の飲みかけなんだろう。
 机の上には小さなモニターがひとつあり、誰もいないフロントロビーの様子が映っていた。
 空調が客室と比べるとあまりよく効いていないようで少し暑く、扇風機が首を振って回っていた。
 私は古くさいソファに腰を下ろして、大きくため息をついた。
 時々扇風機の風が髪を揺らす。
「別れてきたんだ」
 ソファの背に深くもたれて天井を見上げた。
 白い有孔ボードの天井に蛍光灯が二本ずつ並んで、青白い光を放っている。
 どこを見ても無機質な部屋だ。
 そしてそれはどこか自分と同じように思えた。
「俺に関係ない」
 花岡朔は事務椅子に座ってほんとうに嫌そうな様子でため息をつく。
「そうなんだけど、聞いてよ」
「俺を巻き込むな」
「友だちでしょー」
「違う」
 その時、机のモニターの中でエレベーターの扉が開いた。
「あ」
 出てきたのは男性ひとり。
 画質が良くないからはっきりはしないけれど、叶野さんに間違いない。
「彼氏じゃね?」
 キョロキョロとしながら出て行くのがわかった。
「もう彼氏じゃない」
 私はモニターから目をそらす。
「あっそ」
 相変わらず関心がなさそうな顔で、花岡朔はモニターを眺めている。
「……わたし、ほんとに田舎の小さい町で」
「興味ない」
「ひとりごと」
「……あっそ」
「いわゆる底辺校っていう高校しかなくて。進学するなんて考えたこともない人たちばかりで」
 花岡朔は退屈そうにスマホをいじり出す。
 私は構わずにしゃべり続けた。
 こんな自分のことを誰かに話したことはなかった。
 『ひとりごと』という形ではあったけど、どこかで花岡朔は聞いてくれるように思えた。
 彼のことなんてほとんど知らないんだから、根拠なんてないけど。
 それでも私はゆっくりと話し続けた。
「でも私は勉強が楽しかった。知らないことを知るのが楽しかった。……変な子ってよく言われた」
 勉強するのが良い子だって価値観は小学校までだった。
「高校の先生が進学を勧めてくれて……親も全然、そんなふうに考えてなかったんだけど、まあ、なんとかこうやって大学生になれた」
 少し喉が乾いてきたから、バッグからペットボトルの水を取り出して飲んだ。
 ペットボトルには保冷カバーをしていたけれど、もうすっかりぬるくなっていた。
「バイトもはじめて、なんか、口説かれて。結婚してたけど……大人の男の人ってどんなかなってくらいで」
「……まあ、別れてよかったんじゃね? 既婚者なら」
 花岡朔は私のことは見ないで、机に頬杖をついたままぼそりと呟いた。
「そんなの、なんできみにわかんの」
「なんでって」
「別に、好きだったわけでもないけど。だけど、何が正解だとか、わかんないじゃん」
「まあ、そうだけど」
 彼は面倒そうに肩をすくめた。
「そもそも、好きでもないのに付き合うとか、そういう感覚わかんねーな」
「別に……好きになったって、どうにかなるわけでもないし……奥さんから奪いたいとか思ってもいないし。……期待したって何もないなら、最初から期待なんてしない方がいい」
 私が首をかしげると、彼は小さくため息をつく。
「……そうやって感情殺して他人に合わせて、楽しいか?」
 その言葉を聞いて、心臓がどきりと音を立てた。
「……別に、そんなことないけど」
 そんな意識はなかった。
 感情を殺してるとか、他人に合わせてるとか。
 私の何を知ってそんなふうに言うんだろう。
「普通はもうちょっと」
 と言葉を切る。
「きみに『普通』とか言われたくないし」
 不思議な感覚が押し寄せて、私を飲み込んでいくような気がした。
 腹が立つ、ってわけではない。
 ただ胸のあたりがちくりと小さく痛んだ。
「ま、俺には関係ないけど」
「……そろそろ帰るね。あ、部屋の掃除するの? ほとんど使ってないけど、ベッドカバーは取り替えた方がいいかも」
 と、私は立ち上がる。
 彼はちらりと視線を私に向けただけで返事はしなかった。
「あー、フロントから出たらヤバい?」
 入ってきたドアに手をかけてから立ち止まって花岡朔を見ると、
「裏口あっち」
 花岡朔が指さした方向にもうひとつのドアがあった。
「ありがと。……またね」
 ドアを開けるとすぐに外だ。
 三段ほどの階段を下りて、小路から大きな通りに出る。
 自宅のマンションまで地下鉄で四駅あったけど、今夜はこのまま歩くことにした。
 もう夜遅い時間だけど、人通りは少なくない。
 少し歩幅を大きくして人の間を縫うように歩いた。
 夜の街の中では曇っているのか晴れているのかもわからない。
 ただ湿った生暖かい空気が肌にまとわりつく。
 飲み会帰りなのか少し酔ったような陽気な人たちの中で私はうつむいてどんどん歩いた。
 ひとりは自由だ。
 今が何時でも、どこにだって行ける。
 角を曲がってふと顔を上げたとき、ビルの間にうっすらと煙った白い三日月が見えた。
 曲がりなりにも『彼氏』と別れたというのに、涙も出なかった。