Man and Woman

エキセントリック

07.

 

「あっ、ヤバい」
「えっ、あ、これヤバい」
 さっきまで熱風だったのが急にひんやりと冷たい風に変わる。
 今まで青く晴れ渡っていた空は、みるみるうちに黒く大きくなった積乱雲に覆われていく。
 まだ太陽は隠れていない中、雨粒がバラバラと落ちて来て太陽の光に反射してキラキラと輝いていた。
 周りの人たちはあわてた様子で建物の中に入っていく。
「あたしたちも急ごう」
 と走りかけたとき、自分の部屋の様子を思い出した。
「や、ごめん、ちょっと待って。わたし、洗濯物ベランダに干してた」
 朝早めに起きて洗濯したというのに、全部台無しになってしまう。
「きゃー、ヤバいじゃん、それ」
「ごめん、今日やめるわ。ごめん!」
 雨粒がアスファルトの上で跳ね返る音があっという間に大きくなって、自分の声も聞こえにくくなる。
「しょーがないよ! あたし中入るね」
 もう駅ビルは目の前だ。
「うん、ごめん! またね!」
 大きな声で美結と挨拶をして別れ、すぐに来た道を引き返す。
 雨の中を走っているうちに、どうしてか花岡朔のことが思い浮かんだ。
 彼が今どこにいるのかなんてわからない。
 濡れた前髪が貼りついた額を手の甲で拭う。
 あとからすぐに水滴が頭の上から額を伝って流れ落ちてくる。
 大学の門の前を通り過ぎてマンションに向かっていたのに、一度足を止めて、大学の構内へと駆け出す。
 前もよく見えないまま走って、水たまりに入ってしまって盛大に水しぶきを上げた。
「きゃっ……やだーもう……」
 雨を含んだワンピースのスカート部分は脚に貼りついて動きにくくなるし、サンダルもすっかり濡れて足が滑る。  私は図書館の方に向かって歩いていた花岡朔の背中を思い出していた。
 図書館に入って、走るのをやめた。
 水滴が滴る髪をかきあげて、手で顔を拭く。
 バッグにはハンカチも入っていたけど、小さなタオルハンカチでは顔を拭くくらいしかできない。
 ハンカチで水滴を少し払ってから、階段を上がって図書館の閲覧室にそっと入っていくと、そう奥まっていないところで花岡朔を見つけた。
「いた」
 まっすぐに彼に向かって歩いていくと、珍しく彼が私に気づいた。
 目を丸くしてイヤホンを外す。
「あんた、何やってんの」
「花岡、朔……探してたんだ」
 私はまだ息が弾んでる。
「なんで」
「……わかんない」
「わかんないってなんだよ。ていうか、すっげー濡れてんだけど」
 ハンカチで拭いたけれど、それでも髪からはぽたぽたと水が滴ってるし、ワンピースも濡れてない部分なんてない。
 透けにくい色の服でよかった。
「雨降ってきて」
「そうじゃなくて」
「なんか、……わかんないけど」
 思わず声が少し大きくなって、周りの人の視線を感じた。
「ちょっと、こっち」
 花岡朔は仕方なさげに立ち上がって、歩き出す。
 私は黙って彼について歩いた。
 語学関連資料の棚が並ぶその奥に、四つほどドアが並んだ壁が見えてきた。
「ここなに?」
「語学自習室。知らないの?」
 と言いながら、スチール製のドアを開ける。
 小さなスペースにモニターが設置された机と椅子があり、ふたり入るとかなり狭い。
「狭くない?」
「そんな水びたしの人と喋るなんて目立つことしたくないんだよ」
 と言われて、私は渋々中に入った。
「ここなら音も漏れないし」
 とドアを閉めた。
 防音室独特のほのかな圧迫感を感じる。
「で、何?」
「なにってのは、ないけど……強いて言えば、きみがどんな顔するんだろうって」
「なんなんだよ、……変なやつ」
 呆れたような顔でため息をつく。
 驚いたり呆れたり、どちらかと言えばネガティブな表情ばかりではあるけど、最初に思ってたよりもいろんな表情を見せる。
「きみに言われたくないよ。だけど……なんなんだろう」
 私は壁にもたれかかってペタンと床に座り込む。
「わたし変だよね」
「そう言ってんだろ」
 花岡朔は椅子に腰を下ろした。
「部屋のベランダに洗濯物干しっぱなしなのに。なんできみを探しはじめちゃったのか」
「バカかよ」
「ほんと、バカみたい。……自分でもわかんなくて」
 あの日から、この人のイヤホンを引き抜いた日から、自分の中でなにかが変わりはじめた。
 それまで気にすることもなかったこの人を目で追い、それだけじゃなく声もかけて嫌な顔をされて。
 それでも、気になった。
「なんできみのこと、こんなに気になっちゃうの? どうしたらいいの?」
「知るかよ」
 胸の中が苦しい。
 ズキズキと痛むのはどうしてだろう。
「これは、好きってことなの?」
「はぁ? 俺に聞くなよ」
「だって、よくわからない。好きとか、恋とか」
 彼に言われた『感情殺してまで他人に合わせて』と言われたのを思い出す。
 今までどんな気持ちで他人と接してたんだろう。
 この人といると、自分ではどうすることもできない不思議な感情があふれ出す。
 そのことに今、気づいてしまった。
 もうなかったことにできないくらいに、大きくなっている。
「俺は、あんたみたいのは好きじゃない」
 そう言いながら彼は椅子から降りてしゃがんで、床に座り込んだままの私と目線の高さを合わせる。
「そうかもしれないけど」
「……あんたは、俺を無理やり引きずり出そうとする。……あのときから」
 少しうつむいて、つぶやくように話す。
「……イヤホン?」
 あの日、あのときはただの気まぐれだった。
 だけど、あの日から心も環境も変わっていったのは私だけじゃなかったのかもしれない。
「急に目の前に現れて、全部、変えようとする。迷惑だ」
「そんなの、違う。きみはそのままでいい」
「だけど実際こうやって繋がってしまった。ひとりでいいって思ってたのに。ひとりでいようと思ってたのに」
 と、私を睨むようにして目を合わせた。
 こんなふうに見つめ合うのは、はじめてだ。
 少しずつ、ふたりの距離が近づく。
「ひとりは自由だから?」
「そうだ。だから」
「でも孤独だよ」
「別に構わない」
 そう言いながら、こんなにまっすぐに私を見つめるのはどうして?
「わたしも、そうだから」
「あんたは、友だちもいるだろ」
「そうだけど……友だちもいるけど、だけど、……さみしい」
 その瞬間、ぽろぽろと涙がこぼれて止まらなくなる。
 美結が朝、『さみしくない?』って聞いてきたのは、一般的な一人暮らしについて言ったのだと思うけど、あれから頭のどこかに引っかかっていた。
 関心が薄い、深追いしない関係は穏やかで居心地がいいけど、ほんとうの自分を知る人はいない。
 それでいいと思っていたし、それが『普通』なんだと思っていた。
 今『さみしい』という言葉を口にしたとたん、その感情に飲み込まれてしまう。
 感情というものに支配されたくなくて気が付かないふりをしていたのに、完全にコントロールを失ってしまった。
「俺は、さみしくない」
 わかりあえるとは思わないけど、ほんとうの花岡朔を知りたい。
「だから、一緒にいたい」
 少しずつ距離が縮まって、前髪が触れ合う。
 吐息が頬をくすぐる。
 その頬を伝う涙を指で拭くけど、こぼれて止まらない。
「意味がわからない」
「もっと、きみを知りたい」
 知らないことだらけだ。
 名前と出身地しか知らない。
 そんなのはこの人を作るごく小さな情報でしかない。
「知ってどうする。わかってもらおうなんて思ってない」
 だけど、近づきたい。
 この感情が恋じゃないなら、なんになるんだ。
 涙と同じようにあふれてくる。
「わかりあえないかもしれないけど」
「すぐに飽きる」
「違う。だってヒトは毎日新しくなるから。飽きるなんてない」
 こつんと額が合わさった。
 鼻先も触れそう。
 たまらず目を伏せる。