Man and Woman

ただ名前を呼んでくれたら

 その先生の第一印象は、ただ『やなやつ』だった。

 新学期、一番最初の授業で先生が出席を取っていた。
 私の名前を呼ぶ時に先生は少し考えるような表情をしてから、口を開いた。
「小菅……かすが?」
「多田野先生、『こすがはるひ』です。春日。そんなカスカスいうような名前つける親いませんって」
 教室の中にくすくすと笑い声が広がった。
「ああ、なるほどね」
 と、全く笑いもしないで、名簿にメモをしている。


 今年転勤してきた、数学の先生。
 二十六歳だって話だったかな。
 背が高くてやせ形で眼鏡かけてて、いかにも理系な感じの神経質そうな見た目で、基本無表情。
 ……あんまり、好きじゃないって思った。
 その上、わざとらしく名前を間違える。
 最初にメモしてたくせに、あれからずっとわたしのことを『かすが』と呼ぶ。
 嫌な感じ。


「かすが、今日日直だろ? ちょっと手伝って」
 夏休みが間近に迫ったある日の休み時間、教室のドアから多田野先生が顔を見せて、声をかけてきた。
 教室で一緒におしゃべりをしていた女の子たちはみんな一斉に笑う。
「はるひですって」
「夏休みの宿題の問題集、教室に持ってって」
 わたしの言葉は無視することになっているらしい。
 先生は表情を変えることなく、わたしを手招きした。
「男子にやらせてくださいよ」
 数学準備室まで行くのも面倒だし、クラスの全員分なんて重そうだし、嫌だなって思った。
「だって高橋見当たらないし」
 同じ日直の男子は休み時間になるとどこかに行ってしまったらしい。
 わたしが教室を見まわして確認しても、やっぱり高橋の姿は見当たらなかった。
 仕方なく立ち上がって、多田野先生の背中について行く。
「……なんで私が日直の時に……」
「今さっき届いたんだ」
「……夏休みになる時でいいじゃん」
「早めにくれっていう奴もいるんだよ。休みになる前にやってしまうんだってさ。かすがも少し見習えば?」
「遠慮しときまーす」
 面倒なことは先延ばしにするタイプなんです。
 そのおかげで夏休み前半は補習になってしまったのだけど、それは今は関係ない。
 わたしの返事を聞いて、多田野先生は少し笑った。
 斜め後ろから先生を見てると、意外なことに気付いた。
「先生、えくぼできるんだ」
「片方だけな」
 もういつもの無表情に戻って、茶色のセルフレームの眼鏡をちょっと指先で上げた。
「へえ……」
 一瞬しか見えなかったけど、なんか意外。
「もっと笑えばいいのに」
「なんで?」
「なんでって……」
 なんでって聞かれたら、なんでそんなこと言っちゃったのか、自分でもわからなかった。
「笑えるようなことがあれば、普通に笑うよ」
 と言う先生は、全然笑いそうもない仏頂面だ。
 ……ダメだ、こりゃ。

 それから、なんとなく。
 多田野先生を見かけると、つい目で追ってしまう。
 担任ってわけじゃないから、授業中と廊下で通りがかった時だけしか、多田野先生を見ることはない。
 みんなは知ってるのかな。
 あの日の先生の横顔が、いつも頭の片隅にある。
 別に、珍しいことじゃないかもしれない。
 ただわたしが今まで見たことがなかったってだけかもしれない。
 でも、先生の笑った顔をもう一度見てみたいって思った。
 だけど、授業のときは脱線して雑談をするなんてことは全くないし、生徒に気軽に話しかけるタイプでもなく、いつも仏頂面のまま歩いているのを見かけるだけだった。

 結局、夏休みになって補習期間になっても、先生の笑った顔を見ることはなかった。
 ……絶対、笑わなすぎだと思う。
「多田野先生って、笑わないよね」
 数学の補習が終わって、先生が教室から出て行ってから、何とはなしに呟いた。
「どうしたの、急に」
 隣に座っていた美佳が驚いたように言う。
「うーん、なんとなく……あの人の笑った顔見たことある?」
「先生の顔なんてそんな興味持って見てないからわかんないよ」
 と、美佳は笑った。
 ……やっぱり、そんなもんなのかな。
 わたしもこの前までは全然気にしたことなかったし。
「そう……そうだよね」
 言わなきゃよかった。
 余計に気になるようになってしまったじゃない。


 それでもあっという間に一週間の補習期間は終わってしまう。
 補習最終日、どうにか先生と接点作れないかなと考えて、質問をしに行くことにした。
 こんなことって、どの教科でも初めてだ。
「多田野先生いますかー?」
 補習が終わった後、数学準備室を覗いた。
 中にはちょうど、冷たいお茶が入っているらしいコップを持って席に着こうとしていた多田野先生だけがいた。
「……ああ、かすがか。どうした?」
「だからはるひ……まあ、いいや。わかんないところがあって」
「ふーん。……へえ、宿題始めてるんだ」
 と、わたしの手元にある問題集を見て、ちょっと驚いたように言う。
「え、うん。だって先生が早くにやれって言ってたんでしょ」
「だからって本当にやるとは思ってなかった」
 ……それってけっこうわたしをバカにしてると思う。
「わたしだってちゃんとやるんだってば。それで、わからなかったんだけど」
 それは本当。
 今までなら、わからないところは放っておいたと思うけど、……いや、でも、これはついでというか、口実。
 どうにかして笑った顔を出せないかなって思って来たけど、どうしたらいいのかはわからない。
「どこがわからなかった? 一学期にやったものばかりだぞ」
 指先で眼鏡のフレームをちょっと上げてから、机の引き出しからボールペンを取り出す。
「えーでも難しいよ。えーっと、これこれ」
 と、わからなかった問題を指差した。
「ああ、これ……こっちの問題と同じに考えればいいんだ」
 先生はコピー用紙を一枚取り出して、ボールペンで問題を解いていく。
 大きく開いた窓の外、校庭では陸上部の人が走っているのが見える。
 その向こうではサッカー部がボールを追いかけている。
 でもこの数学準備室はとても静かで、先生のボールペンが紙の上を走る音が聞こえるくらいだった。
「あー……そっか、そうすればいいんだ」
「そう。わかった?」
 問題を解き終わった紙をぺらりとわたしに差し出す。
 いかにも多田野先生らしい、几帳面そうなきれいな文字が並んでいる。
 こういうきれいな字を書くところもあんまり好きじゃない。
 それなのにどうしてわたしはこんなところにいるのか、自分でもよくわからない。
「うん、たぶん。……どうも」
「二学期は追試にならないようにな」
「えー……それは、わかんないな」
 そう返事をすると、先生は少し肩をすくめた。
「丁寧に授業やってるつもりなんだけど」
「うーん、わたしの頭がよくないだけだよ、たぶん……」
 今の高校は私には少しレベルが高すぎたらしく、勉強にはついていくのがやっとな状態だった。
 とても今以上の成績は考えられない。
「かすがの場合は頭よりもやる気が足りないだけだ」
「そうかなあ……ていうか、なんで普通に呼ばないかな、わたしの名前」
 いい加減、イラっとくる。
「なんなのそれ、好きな子に意地悪する子どもみたいじゃん」
「変なたとえを出してくるな、お前」
「そういうのって、わたしに気でもあるんじゃないの」
「……あるとしたらどうする?」
 思いがけない返事に、思わず思考がストップする。
「えっ……」
 少しずつ、でもものすごいスピードで、鼓動が速く強くなる。
「……んなわけあるか、ばーか」
「は……や、ばっ……ばかはないでしょーっ」
 と、そのとき、先生の頬に小さなくぼみができた。
「あ……笑った」
「そりゃあ、そんなばかなこと言われたら誰だって笑えるだろ」
 くっくっと笑い声まで立てて、先生はおかしそうに言う。
「わ、悪かったねっ。もういいですっ、お邪魔しましたっ」
 自分でもバカみたいなこと言ったって思って、だんだん恥ずかしくなってきたのとムカつくのとで、ぐちゃぐちゃな気持ちだった。
 まだ笑ってる先生に背中を向けて、数学準備室から出ようとすると、後ろから
「はるひ」
 と、呼び止められた。
「え……先生……?」
 振り向くと、右の頬にひとつ、小さなくぼみを作った先生の笑顔が目に入った。
「また来いよ、はるひ」
「……うん」
 眩しかったのは先生の笑顔なのか、その向こうの夏空なのか、よくわからなかった。
 ただ、先生に名前を呼ばれただけで、くらくらと倒れてしまいそうなくらい。
 その一瞬で、わたしは恋に落ちた。




END


あとがき

2012/06/01