Man and Woman

Heaven's Door

 電車は定刻通りにホームに滑り込む。
 お昼ちょうどのこの時間は比較的空いている駅構内だけど、やっぱり私の最寄り駅よりはずっと人が多くて、人波に流されるようにして改札を出た。
「えっ……と、……あれ?」
 彼の姿を探すけれど、見当たらない。
 手に持った携帯電話の受信メールを確認すると、確かに『改札出たところで待ってる』との文字。
 少し、待つか。
 小さくため息をついて、柱にもたれかかった。


 三歳年上の彼は、職場の先輩だった。
 入社したての私の教育係的な立場だった彼への憧れが恋愛感情に変わるのは、そう時間はかからなかった。
 二年以上の片想いを経て、三か月前に彼の転職が決まり、その送別会の時に酔いに任せて告白したことから、今の関係がある。
 でも、つき合うことになったと言っても、あれからふたりだけで逢うのはこれで四回目だ。
 しかも間に一か月と一週間開いている。
「……つきあってるって、言えるのかなあ……」
 思わず小さな声で呟いてしまって、慌てて周りを見回した。
 幸い、通りすがりの誰も聞いていないようだった。
 ステップアップで転職した先は、今までの職場よりも忙しいようで、電話をしても仕事中だったり、メールの返信が真夜中だったりすることが多い。
 負担に思われたくなくて、彼と逢えない休日には友達を無理やりつき合わせて出かけたりしていたけど、やっと今日から明日の昼ごろまで、一緒にいられる時間ができた。
 楽しみすぎて、昨夜はなかなか寝付けなかったくらい。
 ……それなのに。


 改札を出てから、十分が経った。
 携帯電話は全くの無音。
 電話してみるかな。
 と、彼の電話番号を呼び出した。
 一、二、……と、呼び出し音を数える。
 なかなかその音が途切れないことに苛立ちを感じながら十五まで数えた時、
「はい」
 と、普段より一オクターブほど低い彼の声が聞こえた。
「あ、わたし……ですけど……今、どこです?」
「いま、家……あ……あっ! ちょ、ごめんっ!」
「……もしかして、寝てました?」
「いや、……いや、うん、ごめん。今行くから」
 彼の声とともに聞こえる雑音で、慌てて動いてるだろうことがわかる。
「マンションの場所、覚えてるから一人でも行けるけど……ていうか、行っていいんですか、わたし」
 昨夜だって遅かったのも知ってる。
 だから今日はお昼に待ち合わせて、ランチでもとか思ってたんだけど。
 迷惑だったかな、と思った。
「いいよ、全然いい。でも迎えに行くから、待ってて。ごめん、待たせて」
「うん……じゃあ、待ってます……」
 そう言って、通話を切った。


 彼は、いい人だと思う。
 仕事の時はけっこう厳しくて、何度か泣かされたこともあるけど、その後もフォローすることを忘れない人だった。
 そんなところに惹かれたんだけど、でも、今はつきあってると言っても、まだ彼から好きだとかそういう言葉は掛けられてない。
 キスも、セックスだってこの前に逢った時にしたけど、思ったよりも淡白で、本当に私でいいのかなって少し思ってる。
 ため息をついて駅の入り口に目をやると、ちょうど彼の姿が目に入った。
「ごめん……遅く、なって……」
 息を切らせて、話すのも切れ切れだった。
「は、走ってきたんですか?」
 彼のマンションは駅から十五分くらい歩いたところにあったはず。
 時計を見ると、さっき電話した時間から十分ほどしか経っていなかった。
「そりゃ……走るよ……君を、待たせてるんだし……」
 大きく息をついて、呼吸を整えようとするけど、なかなか落ち着かない。
 ……そう、ずっと私のことを『君』って呼ぶ。
 名前を呼んでもらってないのも、不安になる原因のひとつだと思う。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫……ちょっと、運動不足だな」
 と、笑顔を見せた。
 ジーンズにTシャツ、その上にネイビー系のチェック柄のシャツを羽織ったラフな服装に、髪は若干乱れてる。
 それは走ったせいなのか寝ていたせいなのかは、よくわからなかった。
「疲れてるなら、お休みしててもよかったのに」
「え? だって休んでたら君に逢えないし」
 ふう、とやっと整ってきた息を吐いて、髪を軽く掻き上げて直す。
「それは……」
 その言葉の意味を聞くのには、少しだけ勇気が要る。
 この年になれば、少し曖昧にしておくほうが楽なこともあるって知ってる。
 はっきりさせたいって気持ちがある反面、今の私と彼の関係がそれなのかもしれないとも思って、言葉が出なかった。
「うん?」
 改札の向こうにちょうど電車が入ってきたこともあって、私の声は彼には聞き取れなかったらしい。
「ううん、何でもないです」
「じゃあ、昼飯でも。すぐ近くに美味い寿司屋があるんだけど、どう?」
「うん、いいですよ」
「こっち、ついてきて」
 と、歩きだす彼の半歩ほど後ろについて歩きだした。


 彼が言っていたとおり、お寿司はとても美味しかった。
 食事の間は彼が出てからの会社の話や、仕事のこと、ほとんど私がしゃべっていた。
 食べ終わってお茶も飲んだ後、
「今日は俺が払うよ」
 と、彼が立ち上がる。
「え、でも、申し訳ないです」
「いいって。ちょっと待ってて」
 そう言って微笑まれるとそれ以上は言いにくい。
 物腰は柔らかいんだけど、けっこう強引だったりする。
 小さくため息をついて、店の外に出た。
「え……雨」
 ぽつぽつとアスファルトに小さな染みを作ったかと思うと、見る間に街が濡れていく。
 見上げると、空の半分は晴れ間だというのに、もう半分は真っ黒な雲で覆われていた。
「あれ、雨降ってきた?」
 私の後ろから出てきた彼が空を見上げた。
「天気予報で言ってましたっけー? 傘持ってないんだけど……」
 バラバラと音を立てて雨粒が落ちてくる。
 小雨ならまだしも、こんな雨の中で彼のマンションまで十五分も歩くのは大変だ。
「俺も持ってない。……ちょっとだけ、走れる?」
「はい?」
 まさか、マンションまで走るとか言い出さないかと焦る。
「うーんと、一本渡ったとこ。そこで雨宿りしよう。行こう」
 と、手を掴まれて心臓がどきんと跳ね上がった。


 手を引かれるがまま走った先は、シティホテルだった。
 彼は小ぢんまりとしつつもお洒落な雰囲気のロビーを抜けて、フロントに向かう。
「え、ちょっと待って」
 慌ててその手を引っ張って、立ち止まった。
「何?」
「もしかして、ここで泊まり……ですか?」
「うちに来るよりゆったりできると思うけど?」
 私の戸惑いの方が不思議なふうな顔をして、首を傾げた。
 今日の約束をした時にも『明日の昼頃まで』という話だったから、泊まるつもりではいた。
 実際彼の1DKのマンションよりは、ここの方がいいのかもしれないけど、あまりに急な展開に戸惑ってしまう。
「でも」
「でも、その気で来たんだろ?」
 その言葉を聞いて彼の顔を見上げると、悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
 彼が言うとおり、普段持ち歩く物より大きめのバッグの中には一泊する分の荷物が入っている。
「で、でも」
「何?」
「……ちょっと、強引すぎます」
「そうかな」
 と、首を傾げる。
「でも、やっぱりここでそういう話するよりは、部屋取った方がいいと思うんだよね」
 その時やっと、ここがフロントのすぐ前だったことに気付いた。
「……わかりました」
 私が諦めたようにそう言うのを聞いて、彼は満足そうな表情を浮かべてからフロントに向かった。


「……最初から、こういうつもりだったんですか?」
 エレベーターに乗り込んで、彼は五階のボタンを押した。
「うん、まあね。雨降ってきたのは想定外だけど」
「こんなのって……」
「え?」
「こんなの、……ずるいです」
「そうかな」
「そりゃあ、泊まっていいって言われたから、そういうつもりで来たのは確かですけど」
 と、そこでエレベーターの扉が開いた。
 廊下を進んでカードキーの番号と同じ番号が振られたドアを開く。
「そういうつもりで来たなら問題ないだろ?」
 彼が開いたドアを押さえて、私を部屋の中に通した。
 それに従って部屋に入りつつも、ドアのすぐそばで立ち止まる。
「だけど、……わたしたちって、つき合ってるって思っていいんですか……?」
 ドアがゆっくりと閉まっていき、かちりと小さな音だけを立てて外界とは完全に遮断された私と彼だけの空間が出来上がった。


 ドアを背にした彼はため息をついて、
「……俺はそういうつもりだったけど、君は違うわけ?」
 心外だとでもいうような表情をする。
「わたしは……わたしも、そうですけど、でも……好きとか、……言われてないし」
 こういうことを言うのは、子どもっぽいかなと思う。
 そう思って私は俯いた。
 曖昧にしておいてもいいことなのかもしれない。
 だけど、はっきりさせないままずるずるとセックスするのは、やっぱり嫌だ。
「……なるほど」
「ずっと、一か月も逢えなかったのに、いきなりこういうのも……」
「一か月も逢えなかったから、こうやってふたりきりになりたいって思ったんだけど」
 彼の言葉を聞いて顔を上げると、彼は肩をすくめた。
「そ、そういうことを……言ってくれないと、わからないじゃないですか」
「君こそ、いつまで敬語で話すつもり?」
 ちょっと呆れたような微笑みを浮かべて、私を抱き寄せる。
 彼は私の手からバッグを取って、すぐそばのクローゼットに入れた。
「え……えっと、だって、先輩だし」
「先輩なんだけどさ。もっと、距離感縮めてほしいかな」
「だって、そこまでまだ……」
 告白する前までは、同じチームにいたと言ってもただの職場の先輩後輩でしかなかった。
 そんな急に話し方を変えられるものでもない。
「じゃあどうすれば、縮まるかな?」
「それは……」
「キス、してみようか。少し変わるかもしれない」
 そう言って、唇を重ねた。
 最初はそっと触れ合わせて、軽く啄ばむように。
 頬や鼻先、まぶたにも温かく柔らかな唇をあてて、また唇に戻ってくる。
 私の唇がほんの少し緩んだところに、舌を割り込ませた。
 舌を絡め取って、口の中を確かめ味わうように動き回る。
 後頭部に添えられた手に、少し力が籠ったように感じた。
「んん……」
 苦しくなっても唇が離されることはなく、思わず声が漏れる。
 ふと、窓ガラスを叩く雨粒の音が耳に入った。
 雨音と、私と彼の吐息。
「ねえ」
 唇を触れ合わせたまま、彼が囁く。
「まだわからない?」
「……名前も、呼んでください」
 そう言うとやっと唇を離して、苦笑いした。
「ああ……ちょっと、照れくさくて」
 ずっと苗字で呼び合ってたのが急に下の名前で呼ぶことにするとなると、照れくさいのは少しわかる。
 それに、私たちにはそれ以上に照れくさくなってしまう理由があった。
「でも、……誠さん」
「読みが同じ名前ってのも、照れくさいんだよ」
「しょうがないじゃないですか」
 ふくれっ面のように頬を膨らませると、両手でその頬を挟まれた。
「ほら、まだ敬語だし」
「ねえってば」
「……真琴」
「はい……うん」
 彼は真っ直ぐに私の目を見つめて、微笑んだ。
「君は……真琴は、気づいてなかったみたいだけど。俺も、前から好きだったんだ」
「え?」
 そんなふうに思ってもいなかったから、びっくりして目をぱちぱちすると、彼は面白そうに笑った。
「真琴のこと、ずっと気になってた。好きだった。だから、真琴から言ってもらえて、それだけでもうすっかり付き合えてる気になってた」
「ほんとに?」
「ほんと。……ごめんな、不安にさせてたみたいで」
 と、私の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「うん」
「ところで、こんなところにいないで広いところに行きませんかね?」
「あ……うん」
 部屋の中に視線を移すと、アイボリーのファブリックでまとめられた中にモスグリーンをアクセントに入れたインテリア、その向こうの大きめの窓側にグリーンの布張りのソファとティーテーブルが置かれていた。
 窓の外は、ずっと聞こえている雨音の通り、相変わらず強い雨が降っている。



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