Man and Woman

OOPS!

05. ナミダ。

 300年も生きてたら、そりゃあ過去のひとつやふたつどころか、山のようにあるだろう。
 そして、あんなのでも、涙を見せることもあるのだ。


 その日は家でラテン語の勉強をしていた。
 悪魔祓いの儀式にはラテン語は必須なのだ。
「あたしラテン語わかんないけどね」
 今まで鏡の前で一生懸命な様子で髪を結っていた莉音が、僕の手元のテキストを覗き込んであっさりとした口調で言ってのけた。
 今日は頭の高い位置にひとつにまとめて、その根元に髪の毛束を巻きつけている。
 莉音は髪が長いせいか、いつも何かしらアレンジをしている。
 それなりに毎日服装に合わせているらしかった。
 今日の服は、ノースリーブのチャイナドレスのような服を着ている。
 ただ、普通のチャイナドレスとは違って背中が大きく開いていて、ちゃんと羽が出せるようになっている。
 莉音にしては珍しく露出の少なめな服装だったけど、それでも深く入った裾のスリットから見える脚のほうが気になってしまう。
 いつもしっかり露出してるからもう見慣れたと思っていたのに、たまにこうやってチラチラと見えるようにされると、それはそれで気になってしまうものだ。
 それはたぶん、男としては当然のことだ。……と、思う。


 しかし今はそれよりも、先ほどの問題発言だ。
「何!? マジでわからない!?」
「うん。前にもラテン語であたしを祓おうとした人いたけど、何言ってるんだかさっぱり」
 と、莉音は肩をすくめた。
 今まで『悪魔祓いの儀式はラテン語で』というのが定説だったのに。
「じゃあお前は何語がわかるんだ?」
「うーん、今普通に使ってる言語ならわかるけど、古い言葉は知らないの。だってまだ生まれて300年だもの」
「それってまだ若い方なのか?」
「うん、悪魔ってほとんど永遠に生きてるみたいだよ。あたしもあまりよく知らないけど、でもあたしもまだまだ死にそうにないし」
 この前、下等魔を「吸収」したということから考えたら、たぶん悪魔の世界は食うか食われるかの世界なんだろうと思ったんだけれど。
 実際そうなのだろうけど、莉音は高等魔だ。
 よっぽどのことがなければ、食われるなんてことはないだろう。
 ほぼ永遠に生きて、……永遠に今のままなのだ。
 ……永遠って一体どんな感じなんだろう。


「……悪魔のことって、人間にはまだまだ知らないことばかりなんだな」
 僕はため息をついた。
 今まで勉強してきたことが役に立つのかどうかさえ、あやしくなってきた。
「悪魔にだって知らないことはいっぱいあるよ」
「なんで? 自分のことだろう?」
「だって、つきあいないから。同族に会うことってほとんどないし。他の人のことはよく知らない」
「そういうもん?」
「うん、たぶん、そういうもんなのよ」
 生まれてからずっとひとりで、永遠に生き続ける。
 300年生きてるというのも全然想像つかないんだから、永遠なんてさっぱりわからない。
 それでも、そのほとんどの時間をひとりで生きていく。
 莉音はこれまでもこの先も、ひとりなのだ。
 僕のような人間は、ほんの一瞬通り過ぎるだけ。


 そのとき、家のチャイムが鳴った。
 玄関では父と母が応対に出ている。
「あれ? じいちゃんだ」
 玄関から聞こえた話し声で、祖父が来たことがわかった。
「一真ー、莉音ちゃーん。おじいちゃんが来たからこっちにおいでー」
 玄関から母が呼ぶ。
「呼んでるし、ちょっと行こうか」
「うん。おじいちゃんも、あたしいて大丈夫?」
「ああ、たぶん平気。うちはみんなこういう体質なんだ」
 そう言うと、莉音は安心したような顔で笑った。
 ……それなりに気を使ってるんだな。


「悪魔の子が居候してるって聞いてね。見に来たんだよ」
 と、祖父が笑っている。
 こういう性格もみんな同じだ。
 悪魔祓いを生業としているわりに、どこかのんびりと構えている。
「ああ、この子。莉音って言うんだ」
 と、僕の後ろについてきた莉音を紹介する。
「…りお……?」
「えと、こんにちは」
「やあ……昔と変わらないな」
 驚いたような表情の祖父と、ぽかんとしている莉音を見比べる。
「えっ…え…あー……もしかして、真也くん……?」
「なんでじいちゃんの名前知ってるの?」
「昔、会ったことがあってね。一真と同じように、しばらくの間一緒にいたことがあるんだよ」
「へー…そうだったんだ」
「少し前にね。うわあー」
「私はもうすっかりおじいちゃんになってしまったよ」
「うん、ホント。びっくり」
 そう言って莉音はにっこりと笑った。


 その後しばらく家で話をしたあと、僕以外の家族は祖父とともに食事に出かけることになったが、僕は莉音もいることだし、家で留守番をしていることにした。
 みんなを玄関で見送った後、莉音が見当たらないことに気がついた。
「あれ……どこ行ったんだろ」
 気配はする。
 あの気が完全に消えることはない。
 感じられなくなったときはたぶん、側にいないというときだろう。
「………莉音……?」
 外の方から強い気を感じる。
 庭に出て、莉音の気配を探した。
「あ…何やってんだ?」
 家の屋根の上に、莉音が座っているのが見えた。
「ん………黄昏てるの」
「はあ? なんだよ、それ?」
「……なんでもない……」
 と言ったときに、目元に光るものが見えた。
「何…お前、泣いてるのか?」
「な、泣いてない…っ……」
 そう言い張るくせに、僕から顔が見えなくなるようにくるりと背中を向けて目元をこすってる。
「ちょっと、そこにいろよ。今行くから」
 なんなんだよ、と思いながらも、放っておくことができなかった。


2階のベランダから、はしごで屋根に上がった。
「おい、どうしたんだよ?」
「……どうもしない……」
 そう言いながらも、鼻をすする音もする。
「どうもしなくないだろ。何泣いてんだよ」
 うずくまるように座っている莉音の横に腰を下ろした。
「ホラ、心理カウンセラーに話をしてみろよ」
「何言ってるのよ」
 少し笑ったものの、ぐす、と鼻が鳴った。
「……なんかあったのか?」
「ん……少し、前のこと、思い出しちゃって……」
 ひざを抱えるように座って、俯く。
「じいちゃんのこと?」
「………うん。……あたし、前…50年くらい前かな、こっちに降りてきたときにね、真也くんに会ったんだ」
「うん」
「……会ったキッカケは、一真クンとおんなじ。一緒にいるようになったのもおんなじなの」
 ずっと俯いたまま、話を続ける。
「うん」
「真也くんも、一緒にいてくれて……すごく楽しくて、大好きだったの」
 ぽろり、と涙がこぼれた。
「……でも、真也くんは人間の女の子と結婚しなくちゃならなくて、……一緒にいられないって言われて」
「うん」
「仕方ないんだけど、……わかってたんだけど」
「うん」
「でも、大好きだったから。……そんなのを思い出しちゃった」
「そっか」
「ほんの少し前だと思ってたのになあ。……真也くん、あんなおじいちゃんになっちゃってたよ」
 ふふふ、と笑うけれど、いつもよりなんだか弱々しげな微笑みだった。
 思わず、莉音の肩を抱き寄せてしまう。
 莉音は僕の肩に頭を預けて、目元を手の甲で拭いた。
「……一真クン、好きなタイプだなあって思ってたら、真也くんの孫だったなんてね」
「ああ、……似てた?」
「うん、少し似てるかも。声とか、似てるよ」
「……そっか。」
「うん。………一真クン」
「うん?」
 莉音の顔を見てみたけど、莉音は俯いたままで、表情はよくわからなかった。
「………抱いて」
「………うん」
 僕の返事を聞いて、顔を上げる。
 その顔にキスを落とした。
 最初は頬に、まだしっとりと濡れたままのまつ毛にも。
 そして、唇を重ねた。


 神様、悪魔と体を重ねることは、罪になるのでしょうか……。