Man and Woman

La Vie en Rose

A Last Line 01

「いらっしゃいませー。……あ、こんばんは」
 店に入ってきたお客さまと顔を見合わせる。
「こんばんは」
 穏やかな微笑みを浮かべる、常連さん。
 私がアルバイトをしているダイニングバーに、三日に一回くらいは来ていると思う。
「空いてる?」
「はい、お席にご案内しますね」
 今日はちょっと早い時間だから、彼が気に入っているカウンターの一番奥の席はまだ空いている。
「今日はお一人なんですね」
「ああ、今日はあいつは残業。締め切りがあるのにのんびりしてるから」
 と言って笑う。
 いつもは同僚っぽい男の人と一緒に、ご飯を食べに来るけど、今日は一人だった。
「お飲み物は、どうされますか?」
「そうだな……ワインにしようかな。赤で。今日は車じゃないし」
 そうそう、この人は車のことも多いんだった。
 都内で車通勤って、ちょっと珍しい気がする。
「ただいま、ご用意しますね」
 私はそう言って、彼から離れた。

 私は短大を卒業したけど、就職活動はいまいち上手くいかなかった。
 卒業後はちょっと仕方ない気分で、短大の頃からアルバイトをしていたこの店で、そのまま働いていた。
 ダイニングバーとして夕方から深夜まで営業しているこの店自体は、小ぢんまりとしていてたくさんのお客さまは入らないけれど、ミッドセンチュリー風なインテリアで落ち着いた雰囲気もいいし、イタリアンをベースにした野菜中心のご飯もおいしいし、スタッフだってみんな仲が良くて、けっこう好きなんだけど、やっぱり就職したかったなーと思うところもある。
 実家も都内だけど一人暮らししてるから、それなりにお金もかかるし。
 でもこんな夜の時間帯で働いていたら、ますます普通のOLはできなくなりそうで、それが最近の私の悩み。

「お待たせしました、どうぞ」
 と、彼の前に『本日のおすすめワイン』を注いだグラスを置く。
「ありがとう」
「ご注文はお決まりですか?」
「うーん、そうだな。今日は適当にお任せでお願いしようかな」
「前菜の盛り合わせ、お持ちしましょうか? 今日は…カプレーゼと、魚介のマリネと、野菜のグリルです」
 開店前に覚えた内容を伝える。
 この店の食事メニューは毎日けっこう変わるから、テーブルそれぞれに置くメニューよりもカウンター手前の黒板と自分の記憶力が頼り。
 毎朝送られてくる有機野菜が中心のメニューで、まかないもホントに美味しくて。
 そんな所もこの店を気に入ってる理由の一つ。
「ああ、それなら白ワインにした方がよかったかな」
「じゃあ、白ワインもお持ちします」
 と言うと、彼は面白そうに笑う。
「ナナちゃん、なかなか商売上手いよね」
 私は彼の名前を知らないけど、店員はみんな名札をつけてるから、私の名前は知られている。
「いえいえ、そんなことないですよ。少々お待ちください」
 つられて私も少し笑いながら、キッチンに向かう。

「あ、いつもの人来てるんだ?」
 バイト仲間の理紗子が、ビールをサーバーから注ぎながら聞いてきた。
「うん、今日はあの大きい人はいないわ」
 そう、よく一緒に来るもう一人の人は、すごく背が高くてびっくりするくらいだった。
「わたしはどっちかと言うとあの大きい人のほうが好みかなー」
「あたしは……今日の人のほうがいいなあ」
 今日来てる方の人は、身長は普通くらいかな。
 でもいつも質の良さそうなスーツを着て、落ち着いていて言葉遣いも悪くない、身のこなしもスマート。
 なんとなく上品な雰囲気のする人だった。
 他のお客さまのテーブルも確認しつつ、ちらりとカウンターの奥に座っている彼を眺めてみる。
 携帯は、今流行りのタイプだ。
 それを何気なく確認する仕草も、なんだかカッコよく見える。
 そんなふうに思っていたら、
「前菜、持って行ってー」
 と、シェフであるオーナーに声をかけられて少しびくっとしてしまった。
「あ、はーい」
 前菜を盛り付けたお皿を持ってキッチンを出る。
「お待たせしました」
 カウンターテーブルにお皿を置くと、
「ありがとう。……ねえ、ナナちゃん」
「はい?」
 突然話しかけられて、なぜか声が上ずった。
「ナナちゃん、OLやる気ない?」
「え? ……ええ?」
 急な話に驚いて、私は思わず聞き返してしまった。
「ちょっとね、一人急に辞めた人がいて少し不便なんだ。そんなに難しい仕事じゃないんだけど」
「はあ……えっと、……急な話ですね……」
 そりゃ、OLやりたかったけど。
 なんだか急でびっくりしてしまった。
「だめかな?」
「うーんと、就職はしたいんですよね、できれば」
「あー、契約社員だけど。でもまあ、……オリオンインターナショナルって会社、知ってる?」
「え…ええー? あ、あそこの、ですよね? 超大手じゃないですかっ」
 彼の口から出てきた会社名は、この店の近くに大きくて立派な本社ビルがある、大手のアパレルメーカーだった。
 私の短大を卒業したくらいじゃ、就職なんてできなさそうな会社だ。
 そこなら、契約社員でもいいかもしれない。
「えっと、そこで、働くんですか?」
「そう、まあまあ悪くないと思わない?」
 悪くない悪くない。
 すごくいいと思う。
 だけど。
「でも、急にここを辞めるわけにも……」
 そう、そんなに急に就職するから辞めます、なんて言えない。
「二週間くらい前に言わないとならないんだっけ? ああ、僕から話をしようか? オーナー呼んでくれる?」
「はあ……え……はい」
 なんだかびっくりしてしまって、そう返事するしかなかった。

「オーナー、オーナー! あたし、就職しちゃうかもしれませんっ」
 キッチンに入って、オーナーシェフに向かって叫んだ。
「何の話?」
 驚いた顔をして、オーナーがぶら下げられたフライパンの下から顔を見せた。
「あの、常連さんの会社で働かないかって言われて、オーナー呼んでって言われたんですけど」
「なるほど……ちょっと聞いてくるか。岡崎はそっちで働きたいの?」
「まあ、ここも好きなんですけど、OLもやりたいです……」
 言いながら、正直に言い過ぎかなと思って、つい声が小さくなっていくけど。
「わかった。とにかく聞いてみよう。岡崎は他のお客さんもいるんだし、ちゃんと仕事してなさい」
 オーナーは、私が就職活動してて全然ダメだったのも知ってて、前から『いきなりの中途採用でもあれば、すぐに言えよ』と言ってくれていたから、急にこんな話が出ても大丈夫かもしれない。
「はい」
 それでも気持ちは落ち着かない。
 食事が終わったお客さまのテーブルを片づけながらも、ついカウンターの奥で話をしているオーナーとあの人のことをちらちらと見てしまっていた。

「とりあえず、シフト調整のためにあと三日、ここで働いてもらうことにする。その後先方の会社にお勤めしなさい」
 キッチンに戻ってきたオーナーシェフが、そんなふうに言った。
「え、え、……そうですか……」
「何? 困るの?」
 不審そうな顔をして、オーナーが首を傾げた。
「いや、困らないけど……なんかびっくりしちゃって」
「そりゃそうだよな。俺も驚いたけどせっかくなんだから、いいよ」
 と、オーナーは笑ってキッチンの奥に入っていった。
「はい。……ありがとうございます」
 オーナーにそう言ってから、キッチンを出て、カウンターの奥に座っている彼の側に向かった。

「あの、ホントにあたしでいいんですか?」
 去年、ことごとくダメだった就活が嘘みたい。
 契約社員とは言え、あんな大きな会社で働くことになるなんて。
「うん、いつも働いてるところ見てるし、大丈夫かなって思ったんだし」
 と、彼はいつも見せるような穏やかな微笑みで返事をする。
「え……あ、ありがとうございます」
「まあ、詳しいことは明日か明後日くらいに、もう一度来るから」
「はい。……あ、どうぞ、ごゆっくりお召し上がりください」
 カウンターのお皿にほとんど手がついていないことに気づいて、慌ててお辞儀をして下がった。

「すっごいじゃん、なに急に?」
 キッチンから様子を見ていた理紗子が笑いながら言った。
「なんだろう? よくわかんないけど……」
 本当に、自分では何が何だか。
「ナナ、朝起きられるの?」
 それが一番の問題だけど。
「うん……がんばるよ……」
 四日後の自分が、一体どんなふうなのか、想像もつかなかった。

 二日後、彼が書類を持ってきた。
「これ書いて、明後日持ってきて。朝9時ごろに人事課に行けばいいようにしておくから」
 履歴書とか、契約書とか。
 A4版の封筒の中に数枚の紙が入っていた。
 封筒にはやっぱり、『オリオンインターナショナル』の文字とロゴマークが印刷されていて、明後日からの仕事先がそこなんだという実感がやっとわいてくる。
「はい、わかりました」
「人事課は六階。うーんと、中央の入り口から入って真っすぐの所にあるエレベーターで上がって。フロアの中はエレベーターホールに案内があるからわかると思うけど」
「あ、はい」
「もし、どうしてもわからないことがあったら、ここに電話して」
 と、渡された小さなメモ紙には、名前と携帯番号が書かれていた。
「……藤嶋直人さん」
「そう。僕の携帯」
 初めて知った、この人の名前。
 そんななのにいきなり携帯番号って、いいのかな。
 ……仕事だから、いいのか。
「藤嶋さん」
「直人でいいよ」
「……直人さん」
 いや、恋人とかじゃないのに、いきなり名前で呼んでいいんだろうか。
 そんなふうに思って直人さんの顔を見ると、やっぱりいつも見るのと同じように穏やかに微笑んだ。