Man and Woman

La Vie en Rose

A Last Line 10

 朝方、少し眠って目が覚めたら、直人さんはもう起きていた。
「おはよう」
 私の髪を梳くように撫でる。
「おはよう……ございます……」
 目をこすって起き上がると、彼が立ち上がってカーテンを開けた。
「ゆっくりさせてあげたいところだけど、今日は色々と用があってね。送っていくよ」
「あ、うん」
 用、というのはお見合いのことなんだろう。
 昨夜のことを一気にいろいろ思い出して、重い気分になる。
「どこかで朝ごはんでも食べよう」
「……うん」
 なんでもない、いつもの延長上にあるような会話。
 ランチにでかけよう、って言われるのと何も変わらない。
 そんなふうに考えながら身体を起こした時に、裸のままだったことを思い出して、少し慌てた。
「あっ、……えーっと、服……」
 手で身体を隠しながらベッドの周りを見回す私を見て、彼はくすくす笑って目を細める。
「はい、これ」
 簡単に畳んでまとめられてあった服を受け取った。
「あ、ありがとう……」
 でもそうやって見られてると着替えにくい。
「あの……」
「ああ、邪魔?」
「邪魔ってことでは、ないけど……」
「じゃあ見てていい?」
 と、悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「……ちょっと、邪魔かな」
 そう言うと彼は笑って部屋を出て行った。
 いつもと同じ、……違う、いつもよりもずっと穏やかな雰囲気。
 もう、最後になるかもしれないのに。

 彼のマンションを出て、すぐ近くのコーヒーショップで簡単な朝食を済ませて、私のマンションに向かった。
 車の中では、沈黙するのが少し怖くて、私はどうってことない話をずっと続けていた。
 そんな私の話を穏やかに微笑みながら聞いてくれる、彼の横顔を見ていると胸が押しつぶされそうになる。
 彼の顔をまともに見られないまま、私のマンションについた。
「送ってくれて、ありがとう」
「どういたしまして。じゃあ、月曜日に」
「……うん」
 ドアを閉めると、彼は軽く手を振って車を走らせる。
 角を曲がっていくのを見送ってから、マンションの玄関に入った。

 『月曜日に』だなんて、あるんだろうか。
 結局、別れの言葉も、これからも付き合うという話もなかった。
 ……言い出せない私も悪いんだけど。
 結婚する相手がいるのに、こんな関係をずるずる続けていていいことなんて何もない。

 一人で考え込んでたらいい結果なんて考えつくはずもないんだからもう考えるのはやめよう、と思いながら、ベッドにごろりと横になる。
 ……一人になったら泣いてしまうかと思っていたけど、涙も出ない。
 ただ、胸にぽっかりと穴が開いたように、息をしていても沁みるように痛かった。
 好きって、伝えた方がよかったのかな。
 そう言ってしまえば、何か変わったのかな。
 後悔にも似た気持ちがじわじわと湧いてくるけど、今さらどうすることもできない。
 だって、でも、やっぱり言えない。
 いつかこうなるってことはわかってたのに、どうして好きになっちゃったんだろう。


 ずっとベッドでごろごろしているうちに、眠ってしまったらしい。
 ふと気がつくと窓の外は夕方と言ってもいいような空の色だった。
 そういえば、おなかも空いた。
 仕方なく起き上がって、キッチンの冷蔵庫を覗いて、……あまり食べるものはなかったけど、パスタのソースは引き出しに入っていたから、それを食べることにしようと、鍋に水を注いだ時に、インターホンのチャイムが鳴った。
「はい。……え?」
 モニターに映った顔に驚く。
「ナナ、僕だ」
「直人さん? どうしたの?」
 慌てて玄関に行って鍵を開ける。
 紛れもなく、直人さん本人だった。
「用事、全部済ませてきたから」
「えっ……なんで? お、お見合いは?」
「それは、やめた」
 やけにすっきりとした表情に見えるのは、気のせいだろうか。
「だって、お店は? ずっとやりたいって……」
 私が見てたのはほんの2か月もないくらいだけど、それよりも前から働きかけをしていたのは、話を聞いていればわかってたことだ。
 昨日、企画書の手直しをしながらそのお店の計画を初めてよく見たけれど、お客さまと丁寧に接したいという平野さんの熱意はその文章だけでも伝わってきたし、直人さんは友達として、平野さんのそういう気持ちを応援したくなったんだろうと思う。
 そういうの、結婚したくないからって全部諦めちゃうのって、それでいいの?
「うん、一番いい方法でやることにした。……独立する」
「……え?」
「会社を辞めて、新しく……小さくても、自分たちがやりたいことを自由にできる会社を作ることにした」
「やめる……?」
 だって、あんな大きな会社の、次の社長になれるってほとんど決まってるようなものなのに。
 もう少し我慢して働いていれば、そのうち社長に就任して、どんなお店を出すのもある程度自由にできるようになるんじゃないのかな。
「だって、後継ぐんでしょう?」
「そんなの、どうにだってなるさ。僕の代わりはいくらでもいる。……そんなことよりも、ナナに言わなきゃならない、大事なことがあるんだ」
「そんなことって……」
 それって、直人さんの人生の一大事でしょう? って思うんだけど。
「ナナ」
 真っすぐに私を見つめて、そしてそっと微笑んだ。
「好きだよ」
 その言葉が耳に入ってから、頭の中でその意味を理解するのに、すごく時間がかかってるような気がした。
「ずっと黙ってて、ごめん。ずっと、最初から、ナナが好きだった」
 ひとつひとつの言葉を、ゆっくりと、私に言い聞かせるように。
「あ、あたし……? あたしのこと、……好き……?」
「そう。……僕の言ってることわかってる?」
「……う、うん、でも、……でも……」
 そんな、私が好きってだけで、いろんなこと……今の自分の環境も将来の自分も、すべて捨ててしまって、それでいいの?
 そんなこと、できるものなの?
「……僕はもう、……いや、まだ正式に辞表は出してないから、もうすぐ、オリオンの専務じゃなくなるけど。そんなのじゃ、嫌かな?」
 そう聞かれて、私はすぐに首を横に振る。
「あたしは、……あたしは、直人さんが好き。『オリオンの専務』じゃなくて、藤嶋直人さんが、好き、だから……」
 手を伸ばすと、そっと握って引き寄せて、しっかりと抱きしめてくれる。
「でも、本当に、いいの? だって……」
 顔を上げて彼を見上げたら、彼はやさしく目を細める。
「いいんだ。……ナナが嫌じゃなければ、だけど」
 その言葉を聞いて、私は慌てて首を横に振る。
 そんな気持ちで側にいたわけじゃない。
 ちょっとかっこよくて、大企業の専務で、お金持ちそうだからって、自分から近付けるような相手じゃないし、わたしだってそんなことができるような女じゃない。
「いやなわけないよ。でも、あたし……あたしみたいな、全然、普通のヒトなのに……直人さんは……」
「会社のこと?」
「うん……だって……」
「あの会社には、僕の代わりになれる人はいくらでもいるさ。だけど、僕にはナナの代わりになるような人は、いないから」
 私はまだ今のこの現実が本物だとは思えないけど、見上げた目の前にある彼のやさしい微笑みを見ていたら、これでもいいのかなって思えてくる。
「……後悔、しない?」
「これでナナがついてきてくれなかったら、後悔するかも」
 と、悪戯っぽく笑う。
「あたしは……直人さんと一緒に、……」
 言い終わらないうちに唇を重ねられて、言葉が途切れた。

 これから、どうなるかなんて全然、想像もできない。
 彼の周りは大きく変わってしまうだろうし、きっと私もたくさんのことが変わっていくんだろう。
 だけど、私の側には直人さんがいて、彼の側には私がいる。
 それだけは、わかってる。
 それだけできっと、いいんだって、思ってる。



END

* あとがき *

Original edition 2001/10/?
Rewriting 2011/07/13