Man and Woman

La Vie en Rose

A Last Line 04

 定時で上がって、帰りに会社の近くにある商業施設に寄った。
 スーツは今日の一着しか持ってないし、手持ちの服はカジュアルなものが多くて、通勤にはあまり向いていないものばかりだったから、少し服を買い足さなければならなかった。
 いくつかのショップを見て、カットソーとブラウス、スカートを二枚、パンプスを一足買った。
 あと、ストッキングも。
 一度パンストを手に取った……けれど、ガータータイプのものに取り換えた。
 ちょっと痛い出費だったけれど、初期投資として仕方がない。
「お腹すいたなー」
 買い物を終えて外に出ると、もう暗くなりかけていた。
 マンションに帰って自炊するのが一番だけど、面倒に感じて、昨日までアルバイトをしていた店に向かった。
「こんばんはー、ご飯食べさせてくださーい」
「あれ、ナナじゃん。いらっしゃーい」
 入ってすぐのレジの側には理沙子がいた。
「仕事どうだった?」
「んー、何と言うか……いろいろあって」
「えー?」
 理紗子はキッチンに向かって『休憩入ります』と一言言ってから、エプロンを取って、
「休憩室でごはん食べよ。ナナはビール飲む?」
「飲むっ」
 今日は飲まなきゃやってられない、って気分だし。
 理紗子はビールサーバーでグラスにビールを注いで、私に手渡した。
「注文は後でいいよね」
 と、店の奥にある休憩室に私を引っ張って行った。

 テーブルについてまずはビールを一口。
「……あの人、藤嶋さんさ、あの会社の専務だったんだよねー」
「えっ、マジー? 20代だよね?」
「そう、お父さんが社長なんだって。びっくりしたよ」
「で、ナナの仕事ってなんだったの?」
「それがさあ、専務秘書だって言われて」
「えー、藤嶋さんの秘書ってこと?」
「そうなの」
「ナナ、秘書なんてできるの?」
 その問いかけには首を大きく横に振る。
「出来ないって思ったけど、それでもいいって……」
「えー何それ?」
「何それだよね? あたしもそう思った……けど……」
「まだ何かあるの?」
「……うん……」
 言っていいかどうか迷ったけれど、短大の頃からずっと仲良くしてる理紗子なら大丈夫かなと思う。
 向いに座っている理紗子にだけ聞こえるように、顔を寄せて小声で答えた。
「……キス、された……」
 理沙子は驚いた顔をした後、ニヤニヤと楽しそうな笑顔に変わった。
「へええー、そういうコト」
「絶対、他の人に言っちゃだめだよ!」
「うんうん、何よ、玉の輿ってやつ?」
「……そういうのとは、逆な感じがする……」
「えー、……あ! 愛人みたいな?」
 理沙子は勘が鋭い。
「……なんか、そんな感じ」
「えっ……もしかして…… 」
「う、うん……キス、だけじゃ、なくて……」
「へええー、面白いことになっちゃったねえ」
「……そりゃ、理沙子にとっては面白いだろうけど……」
「うんうん、そっかー、三人目の彼氏でそういうのが来たかー」
「三人目とかいいから」
「吉村、仕事はー?」
 オーナーがキッチンから顔を出して、理紗子に声を掛けた。
「休憩中でーす」
「お、岡崎、飯か?」
 このオーナーはどちらかと言えば体育会系だ。
 気さくで大らかだけど、仕事にはけっこう厳しいところもある。
「はい、ごはん食べに来ました」
 オーナーにそう言うと、うれしそうな顔で笑う。
 この人は本当にいい人っぽい。
 ……直人さんとは大違いだ。
「オーナー、オーナーは直人さん……藤嶋さんが専務って知ってたんですか?」
「うん、名刺貰ったから」
「なんで教えてくれなかったんですかー」
 教えてくれていたらもう少し気持ちの準備ができていた……よりも、断っていたかもしれない。
「岡崎、ビビると思って」
 オーナーは、当然とでも言うような顔をする。
「……そりゃ、ビビりますけど……」
「仕事どうだった?」
 と、聞かれるけど、まさかセックスしたとは、オーナーには言えない。
「……まあ、なんとかやれそうな感じです」
 仕事自体は、難しいことはなかったし、難しい仕事はやらされないだろうと思う。
 問題は、仕事以外のところにあるのだけど。
「それなら良かったな。頑張れよ!」
「はい」
「半額にしてやるから、しっかり食べてけ」
 と言って、オーナーはキッチンに戻って行った。
「あ、ありがとうございます!」
 それは素直にうれしい。
 さっき服を買って散財してしまったばかりだったから、余計にうれしく感じた。
 オーナーがキッチンに戻って行った後、理紗子が少し顔を寄せて話しはじめた。
「ね、どうするの?」
「どうするって言っても……とりあえず、まあ……」
 なんとなく、『辞める』と言う選択肢は考えてなかった。
 嫌じゃない、と言えるわけではない。
 あんな『遊び』に付きあうなんて、しないほうがいいに決まってる。
 ……でも。
「でもさ、興味あるんでしょ?」
 私が思ったのと同じタイミングで、理紗子が言った。
「……ちょっとだけ、ね」
 今まで付き合ったことのある人って二人しかいないけれど、同い年だった。
 直人さんはそういう人と違う感じがするから。
 彼みたいな大人とは付き合ったことがないから、どんな感じなのか知りたいのもあるし、それに、あんな……いわゆる『セレブ』な人が、どうして私みたいな全然普通の子を誘ったのか、とか。
 気になる事は山ほどある。
 付き合ってみたら、わかるのかもしれない。
 そう思った。
「……少し、付き合ってみようと思うんだ」
「ま、いいんじゃない、そういう経験も。でも、ハマらないようにねー」
「……そこなんだよねー……」
 私のため息を聞いて、理紗子はケラケラと笑うけど。
 今はまだ、彼のことが好きとかいう恋愛感情はない。
 でも、……今日みたいなことしていたら、何となく、そういう気持ちにならないとは限らない。
 恋愛感情を持つようになると、あの人とはきっと上手くいかないと、漠然と思った。


 朝、二つめの目覚まし時計のアラームでやっと起き上がる。
 昨夜は結局色々と考え事をしてしまって、よく眠れなかった。
 ふうっと一息ついてから、
「……さ、仕事仕事!」
 と自分に言い聞かせるようにして、ベッドから降りた。

「おはようございます」
 専務室に入るときにはすこし緊張したけれど、誰がどこで聞いてたりするかわからないし、できるだけ普通に聞こえるように挨拶をする。
 今日は昨日買ったばかりのネイビーのカシュクールカットソーと花柄のスカートを選んだ。
 普段はもっとカジュアルな服が多いから、パンプスにも慣れてなくて少し歩きにくかったけれど、こういう職場ならやっぱり少しきちんとしたコンサバな感じの服装じゃないと合わない。
「おはよう」
 直人さんはもう自分のデスクについて、新聞を読んでいた。
 新聞から目を上げて、私の方を見てやさしく微笑む。
 男の人って、別に好きってわけでもない女に向かっても、こんな表情が出来るのかな、と思った。
「……早いんですね」
「そうかな。まあ、あまりギリギリだと、道が混むからね」
 そうか、ちょっと珍しいなと思っていた車通勤も、専務ならわかる気がする。
「ナナ」
「は、はい」
 つい、声が上ずる。
「そんなビクビクしなくても。警戒しすぎ」
 と笑う。
「警戒なんて……でも、だって……」
 昨日のことを思うと、付き合おうと思っていても、やっぱり身体は固くなる。
「今日はちょっと忙しいから、しないよ。期待に沿えなくてごめんね」
「き、期待とかないですからっ」
 私の反応を見て、くすくすと楽しそうに笑ってから、ノートパソコンを開いて電源を入れる。
「午前と午後、別の会議があるから、ナナも一緒に来て。昼はまた外に出ようか」
「あ、はい」
 昨日は結局ご馳走になってしまったけど、本当は自分の分は自分で払った方がいいような気がする。
 だって、恋人じゃないんだし。
「あと、コーヒー飲みたいな」
「あ、淹れてきます」
 席に着いたばかりだったけれど、すぐに立ちあがった。

 ほんの少しずつ、ドリッパーに入れたコーヒー豆にお湯を垂らして、豆が膨らむのを待つ。
 細くお湯を回し入れると、ふんわりとコーヒーの香りが立ち上った。
 飲むのももちろん好きだけど、この瞬間の香りが一番好きだと思う。
「おはようございまーす」
 給湯室に女の人が入ってきた。
「あ、おはようございます」
 私より少し年上かな、と思う。
 フロアにひとつしか給湯室がないから、同じフロアにあるいくつかの役員室にいる人が共同で使っている。
 どこか別の役員の秘書なのかもしれない。
「あ……あなた、藤嶋専務の新しい秘書の子?」
「あ、はい。よろしくお願いします」
 ぺこっと頭を下げて挨拶をすると、その人は私の頭から足先までチェックするように見てから、
「ふうん。よろしくお願いします」
 と言って、手早くコーヒーメーカーの用意をはじめた。
 ……なんとなく、『ふうん』が引っかかった。

「お待たせしました」
 机の上にコーヒーカップを置くと、彼は
「ありがとう」
 と、微笑む。
「あとナナ、普通に話していいから。昨日も言ったけど」
「え、でも、……そうですかね」
 若干、もうすでに崩れてきてる気もするけれど、やっぱりそれなりに丁寧語で話をしたほうがいいような気がする。
 だって、恋人じゃないんだし。
「会議の席とかでタメ口だとまずいけど、この部屋なら誰も聞いてないし。そんな堅苦しくしないでいいよ」
「はあ……はい。……うん」
 そんなにまだ親しいと言うほどでもない年上の人にタメ口というのは気が引けるけど、そう言われると仕方がない。
「……あ、あの」
「何?」
「えっと、……さっき、別の秘書さんっぽい人にあって、……藤嶋専務の秘書? って聞かれて……」
「うん」
「ふうん、とか言われたんですけど…だけど……」
「ふーん」
 彼は『だから何?』とでも言うような顔をして、微笑んでいる。
「……ふーん、でいいのかな」
「いいんじゃない?」
 私は、そんなに勘が鋭い方ではないけれど。
 なんとなく、その意味合いはわかる気がした。

 彼にとって秘書の女の子は、アクセサリーみたいなものにすぎないのだろう。
 時計やネクタイみたいなものと同じ。
 ちょっと気に入ったら側に置いて、飽きたらまた違うものに代えてしまう。
 私はそのうちの一つ。
 ……でも、それならもっと美人とかいるだろうと思うけれど、どうして私なんだろう?
 背は低くて胸が大きいなんて、少しアンバランスな体型だし、顔だって、不細工と言うほどではないとは思うけど、特別きれいとかかわいいとかいう気もしない。
 さっき給湯室で会った人の方が美人だと思う。
 ……直人さんってよくわからない。
 小さくため息をついて、自分の席に座った。