Man and Woman

La Vie en Rose

A Last Line 05

 それから、直人さんとは時々、セックスした。
 二人きりの時、彼がパソコンに向かう手を止めて、私のほうを見る。
「……ナナ」
 と呼ばれると、なんとなくわかる。
 コーヒー淹れてとか、コピーして来てとか言うときとは、違って聞こえるのはどうしてだろう。
 その声だけで、私の身体の奥深い部分が熱くなる気がする。
 そういう時は、私は黙って立ちあがって、彼に近づく。
 手を引かれて抱き寄せられて、最初はやさしい軽いキスをする。
 そのあと、深く舌を絡ませて、長いキスをする。
 そのまま私は抵抗することも、不満を言うこともなかった。
 直人さんとのセックスが、今まで経験したのと全然違って、気持ちいいって思えたのもある。
 今まで何度も経験があるわけじゃないけれど、初めての時は痛いだけだったし、そのあともあまり気持ちいいって思えるようなことはなかった。
 でも彼は、少し強引で意地悪だけど、やさしくて、そしてこんなオフィスの中でセックスをするというスリルが、私を刺激するんだと思う。

 普段は、一緒の部屋にいたって、そんなに話しをするようなこともない。
 私はいつも専務室に籠っているから、会社の中で会う人なんて平野さんくらいで、時々退屈になってしまうくらいだった。
 ランチには連れて行ってくれるけど、だからって何を話すわけでもなく。

 どうして、私だったんだろう。
 最初の日からずっと不思議に思っている。
 彼なら、私よりも美人な人とも簡単に付き合えるはずなのに。
 ランチに出かける途中、ふと立ち止まって、彼の背中を見つめる。
 私の少し前を歩く彼。
「……ナナ?」
 ほら、私が立ち止まったこと、後ろも見てないのにどうしてわかるんだろう。
「あ、なんでもない」
 私がへらっと愛想笑いを浮かべると、やさしく目を細める。
「ほら、おいで」
 と、伸ばされた左手に……少し躊躇いはあったけれど、右手を差し出した。
 ……本当、不思議だ。
 好きって訳じゃない。たぶん。
 なんとなく、私が彼の目に入っただけ。
 そんななんだろう。
 それなのに、どうしてそんなやさしい顔するんだろう?

「藤嶋専務が秘書と手をつないで歩いてたって評判だぞ」
 と、平野さんがノックもなしに専務室に入って来て、笑って言った。
「ああ、そう」
 直人さんは全く動揺することなく、頬杖をついてノートパソコンの画面を見たままだった。
「えっ、『ああそう』でいいの?」
 私は彼のあんまりにあっさりな反応に、驚いてしまう。
「別に、事実だし」
「事実なのかよ」
 平野さんはただの噂話だと思ってたみたいで、ちょっと驚いた顔で、確かめるように私の方を見た。
「えっ、まあ……そうなんですけど」
 でもそういうのって本当はあまり大っぴらにしてはいけないような気がする。
「そんなことより。こんな現実離れした企画書じゃまた通らないぞ」
 と、ノートパソコンを指先で叩く。
「やりたいこと全部詰め込んだらそんな感じになるんだけどな」
「全部っていうのが無理なんだよ」
 平野さんは新しくお店を出したいって言って企画を出していて、直人さんもそれを後押ししているらしいんだけど、なかなかいいように話が進んでいないらしい。
「あーもう独立でもすっかな」
 平野さんは応接セットのソファに寝転がって、大きくため息をついた。
「達也、その資金はあるのか?」
「ない」
 平野さん、貯金していそうな感じしないし。

 理紗子に頼まれて平野さんと理紗子のメルアド交換してあげたけど、こんな人で大丈夫なんだろうかとか思う。
 ……人のこと言えないか。
 むしろ、私と直人さんの関係の方が、もっと性質が悪い気がする。

 その日の夜、夕食を取るために、バイトをしていた店に向かった。
「そりゃあ、ナナのほうが性質悪いに決まってるじゃん」
 理紗子の休憩時間に合わせて行ったから、従業員の休憩室で話をしながら食事をすることができた。
 今日の話をすると、何言ってるの、とでも言うような顔をして理紗子が言った。
「ま、ね。わかってるけど」
 お金があったって、ちょっとやさしくったって、何かが違う。
「理紗子、平野さんとどう?」
 あまり突っ込んで聞かれても困るし、今日は理紗子の話を聞くことにする。
「うん、メール来るし、この前ちょっと遊んだ。いい人だよー」
「そうだよね、裏表とかなさそうだし」
 直人さんとは大違いだ。
 だけど何故かあの二人はけっこう仲がいい。
 それも不思議だ。
「たぶんちゃんと付き合うかも」
「えー、そうなんだ! よかったじゃん」
「うん、ナナがメール聞いてくれたおかげだよ。サンキュー」
 と言う理紗子の表情は、とっても幸せそうに見えた。
「どういたしましてー」
 友達の幸せな話って、自分もうれしくなる。
「で? ナナはどうなの?」
「え……今日は理紗子の話で盛り上がろうよ」
 せっかく楽しい気分になったのに、わざわざ愛人生活の話にしなくてもいいと思う。
「盛り上がってられるほど時間はないのよ」
 そう、理紗子は仕事中だった。
「……どうって……変わらない、かなあ」
「ナナはそれでいいのー?」
「いい……ことはないけど……」
 いいってことはない。
 だってあんなの……本当に、ただの愛人だ。
「ねえ、ナナは藤嶋さんのこと好きなの?」
「……どうだろうねえ」
 本当に、自分でもよくわからない。
 でも、あまり好きになってはいけないタイプだということは、わかる。
「でも、もし、もしもね。万が一、直人さんのこと好きになっちゃったりして、本気見せたりしたら……すぐ捨てられたりしそうじゃない?」
 そう、彼はやさしい顔してるけど、そういうことは平気でしそうな雰囲気がある。
「それは、あるかもねー」
 そうなったら仕事だって失うことになるし、それはちょっと困る。
「だ、大丈夫大丈夫。そんな気は、ないから。……あんまり」
 ちょっと自信はないけど。
 でも、あの人は好きになったらいけない。
 それだけは、わかってる。

 数日後、私は朝から憂鬱だった。
 月に一度、なくてはならないものだけれど、いつも痛みが伴ってくるのがとても辛い。
 鎮痛剤を飲んで出勤したけれど、やっぱり不快感は残っている。
「おはようございます」
 専務室のドアを開けると、いつも通り直人さんはもう出勤していた。
「おはよう。……ナナ、顔色悪い?」
 彼は私の顔を見てすぐにそういうことに気が付く。
 どうしてそんなふうに、気がついちゃうんだろう。
 ……私は本当に彼のこと『どうして』って思うことが多い。
「あ、えーと、生理始まっちゃって」
 こんな日にセックスに誘われても困るから、正直に伝えておく。
「ああ……なるほどね。具合悪いのか?」
「まあ、……うん、でも大丈夫。お仕事なんだし」
 痛いと言ってもそんなに酷い方でもないし、病気ではないのに仕事を休んだりするのはちょっと良くないと思う。
「無理しないで、休んでも良かったのに」
「いえいえ、働くよ。コーヒー淹れてきます」
 と、私は専務室を出た。

 大丈夫って言ってみたけど、やっぱりちょっと辛い。
 今日は鎮痛剤も全然効いてこないように思った。
「はあ……」
 一度深いため息をついてから、専務室に戻った。
「どうぞ」
 と、コーヒーカップを彼のデスクに置いたとき、ふと手を握られた。
「手、すごく冷たいじゃないか」
「え、いつもこんな感じでしょう」
「そんなことないよ。ソファで休んでいた方がいい」
「でも」
「ナナ」
「……はい」
 仕方なく返事をしたら、彼は少し安心したように微笑む。
 私は応接セットのソファに横になって目を閉じた。
 今日は特に来客の予定も会議の予定もなく、……本当は、セックスするんだったのかもしれない。
 だけど、彼は嫌な顔もしないで、逆に私の身体を気遣ったりして。
 ……本当に、わからない人だ。
 彼が立ち上がってこちらに近づいてくるのが、目を閉じてても足音でわかる。
 私が寝ているソファのほんのちょっと空いているスペースに浅く腰を下ろして、私の髪を撫でた。
「何か掛けるものがあればいいんだけど……膝掛けでも、ないよりはマシかな」
 と、立ち上がって私の席から膝掛けのブランケットを取ってきて、体に掛けてくれた。
「あ、……ありがとう……」
 目を開けると、彼は私を見下ろしてやさしく目を細める。
 思わず、心臓がどきりと音を立てた。
 こんなふうにやさしくされたら、どういうリアクションしていいのかよくわからない。
 彼はまた私の側に座って、指先で髪を撫でる。

 どうして、そんなふうにやさしくするの?
 聞いてみたいけど、答えは出るのだろうか。
 ……私は、どんな答えが欲しいんだろう。
 自分でもわからない。
 でもあまり深く考えたらいけないような気がする。
 なんとなく、そう感じた。
 私は考えるのをやめて、また目を閉じた。
 目を閉じて髪を撫でられていると、だんだんと眠たくなってくる。
 意識を手放しかけたその時、
「直人ー、いるー?」
 と、いつものように平野さんが入ってきた。
「達也……タイミング悪いな、お前」
 と、直人さんはため息をついた。
「あれ、イイところだった?」
「そんなんじゃないけど。……まあ、いいや」
「あ、あたし、コーヒー淹れてきます」
 直人さんが立ち上がるのと一緒に、私も起き上がる。
「お、サンキュー。気がきく秘書だなー」
「ナナ、無理しないでも……」
 直人さんはそう言って眉をひそめるけれど。
「大丈夫、ホントに。少々お待ちください」
 と、努めて明るく言って、部屋を出た。

 ふう、とひとつため息をつく。
 本当に直人さんってよくわからない。
 普通、好きでもない女に向かって、あんなにやさしい瞳ができるものなんだろうか。
 それともただの私の勘違い?
 ……勘違いというのもありそうな気がしてきて、もう一度ため息をついた。
 コーヒーサーバーにはちょうど二人分のコーヒーが出来上がった。

「お待たせしましたー」
 と、直人さんのデスクと、その横につけた平野さんのための予備デスクにそれぞれのコーヒーを置いた。
「ナナ、休んでいなさい」
「でも……」
「いいから」
「……はい」
 きゅんと胸の奥が小さくくぼむような感触があった。
 なんだろう、これ。
 でもこれはたぶん、考えたらいけないこと。
 私はまた、ソファに横になった。
 直人さんと平野さんが話をしているのが聞こえていたけれど、頭の中までは入ってくることはなく、私は眠りに落ちていった。