Man and Woman

La Vie en Rose

A Last Line 06

 目が覚めた時、一瞬自分がどこにいるのかわからなかったくらい、よく眠った気がした。
 左手を上げて腕時計を見て、びっくりした。
「ええっ……もう二時!?」
「ああ、起きた? おはよう」
 慌てて飛び起きると、もう平野さんは部屋にいなくて、直人さんが一人でデスクについていた。
「あ、ご、ごめんなさい……」
「いいよ、気にしないで。具合はどう?」
 しっかりと眠ったおかげで、痛みもかなり抜けていた。
 彼が立ち上がってこちらに近づく。
「もう、大丈夫。……ありがとう」
「うん、顔色もだいぶ良くなったみたいだ」
 と、私の頬を撫でて微笑む。
「お昼、食べておいで」
「あ、直人さんは?」
「ナナが寝てるうちに行ってきたから」
 そのことも気がつかなかったのは、ちょっと寝過ぎだと思う。
「はぁ……なんか、ごめんなさい」
 今日は仕事らしい仕事は全然してないし、これからの時間でも何かするとも思えない。
 そもそも最初からまともな仕事はしてない感じもするけど、今日はひど過ぎる。
 それなのに彼は、私の頭をやさしく撫でて、微笑んだ。
「ナナが元気になったなら、それでいいから」
 ……そういうのって、恋人じゃない人に言うことじゃないと思う。
「……直人さんって……」
 私のこと、どう思ってるの?
 そう言いかけて、口をつぐんだ。
「何?」
「……なんでもない。ごはん、買ってきてここで食べてもいい?」
「構わないよ」
 そう言って微笑む彼を見たら、なんだか胸の奥がちくりと痛くなった。

 専務室を出て、足早にエレベーターホールに向かう。
 こんなのっておかしいと思う。
 胸に手を当てて、それでも痛みは治まらない。
 なんで、こう、ちくちくするんだろう。
 ……ホルモンバランスのせいにしておくのが、一番かな。

 エレベーターを待っていると、この前会った他の秘書の人が書類の束を抱えて来た。
「あ、お疲れさまです」
「あ……お疲れさまです」
 彼女はそう言って、私の近くに立ってエレベーターを待った。
 ……どうも、気まずい気分。
「休憩?」
「え、あ、はい」
「今日は藤嶋専務と一緒じゃないんだ?」
「え……はあ……」
 一緒じゃないことは今日が初めてってわけではないけど。
 でも、なんだか棘のある言い方に聞こえるのは、私の気のせいなのか、それともこの人がそういう話し方なのか。
 そのうちエレベーターが到着した。
「私も下に行きます」
 と、彼女も乗り込んだ。
 ……気まず過ぎる……。
「あ、あの、何階ですか?」
「一五階お願い」
「はい……」
 なんとなく、こういう人苦手……。
「……なんか」
「え?」
「藤嶋専務の趣味ってよくわからないな」
「……はあ」
 どう返事をしていいのかわからない……というか、返事のしようがない。
 彼女には聞こえない程度に、私は小さくため息をついた。
 ポン、と音がして、エレベーターの扉が開く。
「じゃ、お疲れさま」
「お疲れさまです」
 そう言ってすぐに扉を閉めるボタンを押した。

 彼女が降りて一人になってから、壁にもたれてもう一度、今度は大きくため息をつく。
「はあ……疲れる」
 たまにしか会わないけど、こんなにストレスになる人って珍しいんじゃないかと思う。
 あれがいわゆる『お局さま』か。
 そう言うにはまだ若いと思うんだけど、人によるのかな。
「あたし、OL向いてないのかも……」
 やっぱり、あのダイニングバーでバイトしてた時の方が、楽しかった気がする。
 ストレスになる人はいなかったし、職場の人にこんな……胸が痛くなるような感情になることもなかったし。
『藤嶋専務の趣味ってよくわからないな』
 そう言った彼女の言葉が、頭の中に引っ掛かってる。
「あたしにだって、わかんないよ」
 独り言を言って直人さんを思い浮かべると、また、胸の奥がちくりと痛んだ。
「……なんなのよ、もう……」
 あの人のことなんて、好きになってない。
 あの人のことなんて、好きにならない。
 好きになったらいけないんだって、わかってる。
 絶対いいことなんてないから。
 叶わない願いは、最初から望まなければいいんだ。
 そう自分に言い聞かせてみるけど、胸の痛みはずっと治まらなかった。

「ただいま戻りましたー」
 コンビニでサンドイッチを買って戻ると、
「おかえり」
 と、迎えてくれる。
 彼はそうするのが当たり前みたいな感じで微笑むけど、今日はまっすぐにその顔を見ることができなかった。
「あ、お茶入れてくるけど、直人さんも何か飲む?」
「ああ、そうだな。ナナと同じもので」
「……紅茶にしようと思うんだけど、それでいい?」
「うん、構わないよ」
「えーっと、いろいろとあるんだけど……どれがいいかな」
 と、私は一度椅子に座って、自分の机の引き出しを開ける。
 そこにはいくつかのティーバッグやリーフティーの袋を入れていた。
「いろいろ……そんなに持ってきてたの?」
 彼の場所からもその引き出しは見えるようで、くすくすと笑いながらこちらを覗く。
「あ、うん。休憩時間とかに飲むつもりで……え、変?」
「いや、変じゃないけど……でも、けっこう多いなって思って」
「その日の気分でいろいろ違うの飲みたいし……あとこのすぐ近くに美味しい紅茶のショップがあって。帰りについ買っちゃうの」
 美味しいところのはそれなりのお値段もするけど、ちょっとずついろいろなフレーバーを買ってしまう。
 今は家にいる時間も短くて、家でお茶を飲む回数も限られているから、こうやって職場に持ってきておいた方が都合がよかった。
「へえ、どんなのがある?」
 頭のすぐ上で彼の声が聞こえて、心臓が止まりそうなほどびっくりした。
 引き出しを覗きこんでいたせいで、彼が近くに来ていたことに気がつかなかった。
「び、びっくりした」
「ああ、ごめん」
 そう言ってまた、やさしい笑顔を見せる。
 ……だからそういう顔は、恋人に見せるものだってば。
 直人さんは別に元々やさしげな顔立ちってわけではない。
 きれいな切れ長の目は、黙ってたら場合によっては冷たそうな顔立ちにも見えると思う。
 だけど、その瞳が私に向けてやさしく細められたりしたら……やっぱり、胸の奥がちくちくと痛い。
「ああ、僕はアールグレイが好きかな」
 私と一緒に引き出しを覗いて、その中の一つの袋に指をさす。
「じゃ、アールグレイにするね」
 と、その袋を取り出して立ち上がろうとしたとき、後ろからそっと肩を抱かれて、顎を上げられる。
「あ……」
 何も言えないまま、唇を塞がれて。
 もう、反射的に目を閉じる。
 何も考えられない。
 何も考えない。
 どれくらいの時間、キスをしているのかも考えないで、私はただ、彼のキスを受け入れるだけ。
「……ごめん、急に」
 唇を離して、小さな声で呟いた。
 聞いたことがないような彼の声に少し驚いて目を開けたけど、彼はすぐに自分のデスクに向かってしまって、表情は見えなかった。
「あ、うん……や……えっと、ちょっと、待ってて。お茶淹れてくる」
 慌てて立ち上がって専務室を出た。

 ……心臓がどくどくと音を立てる。
 彼とのキスなんて、もう何回もしてる。
 でも、なんだか……何が違うってわからないけれど、でも、何か違う感じがした。
「はあ……」
 給湯室の天井を見上げて、大きくため息をついた。
「やっぱりあたし、絶対向いてない」
 OLも、愛人も。
 だからって、辞めるってこともできない。
 いや、仕事なんかは何とでもなる。
 でも、……直人さんと離れるのは、嫌だと思う自分がいる。
 そんなのおかしいってわかってる。
 今みたいな関係、いいわけがない。
 だけど、離れたくない。
 側にいたい。
 ……やっぱりそんなの、おかしい。
 あんな人好きになってどうするの?
 この大きな会社の次期社長で、セレブで、私なんかとは全然違う人。
 普通に恋人として付き合って、いつか……とか、絶対あるわけない。
 あるわけないのに。
 ずっとなんて、側にいられないのに。
 だから好きにならないって決めたんだ。
 だけど。
 ………。
 何を考えても、ぐるぐると同じところを回ってるようで、答えなんか出てこない。
 その時、やかんの蓋がカタカタと立てた音で、我に返った。
「あっ……あつっ」
 慌ててコンロの火を止めて、ティーポットにお湯を注いだ。