Man and Woman

La Vie en Rose

A Last Line 07

 それからも、彼との関係は変わらなかった。
 変わるわけがない、私は何も言わないから。
 だけど、彼に名前を呼ばれた時、胸の奥の方がやっぱりちくちくと痛むようになった。
 こういうのが、『せつない』って言うんだろうか。
 今まで感じたことのない感覚。
 痛くて、苦しい。
 彼が触れた肌が、ひりひりと痛む。
 体中が痛くて、でも離れられない。
「あ……直人さん……直人さん…っ……!」
 ソファの上で、下から突き上げられて堪らず私が彼にしがみつくと、彼は私の髪を撫でて微笑む。
 そんなやさしい顔しないで。
「ナナ……」
 やさしい声で名前呼ばないで。
 やさしいキスしないで。
 気の向き方で女の子を秘書として侍らせてみたり、昼間からセックスしたりして、ただの酷い悪い人でいてくれたら、好きになんてならないのに。
 でも、私はいつの間にか、一番最後のボーダーラインを越えてしまったらしい。
 好きにならないって決めたのに。
 それでも、抱かれるたびにどんどん好きになっていく。
 好きって言ってしまいそうで、でも絶対言えない。
 だから余計に苦しくなる。
「も……だめ……っ……」
 壊れて、溢れてしまいそう。
 私の意志とは関係なく跳ねる背中を彼が抱きしめる。
 目は、開けられない。
 目を開けて彼を見たら、きっとやさしく微笑んでくれるんだろう。
 そんな顔を見てしまったら、どうしていいのかわからなくなる。
 ……見てなくても、もうこんなにぐちゃぐちゃな気持ちなのに。
 どうしよう、私。

 その日は、金曜日だった。
 ランチから戻ってきてすぐに、直人さんに直通の電話がかかってきた。
「はい。……すぐにですか? はい。……わかりました」
 受話器を置いて、彼はため息をついた。
「何かあったの?」
「うん、社長から呼び出し」
 と、肩を竦める。
 社長室から電話だってことは、私の机にもある電話の内線ボタンで気づいてた。
「社長さんって、お父さんだっけ」
「ま、ね。ほとんど付き合いないんだけど。……ちょっと行ってくる」
「あたしは、行かなくていいの?」
「うん、留守番してて」
 と、彼は私の頭をぽん、と撫でて部屋を出ていった。

 一人っきりでこの広い部屋にいるのは、なんだか寂しい気分がするけど、少しホッとしているところもある。
 だんだん、直人さんの前でどんな顔をしていればいいのかわからなくなってきた。
 器用にポーカーフェイスではいられないから。
 私の今の気持ち、彼に全然知られてないってことはないような気がする。
 でも、直人さんは私に何も言わない。
 ふう、とため息をついて、パソコンの電源を入れた。
 そういえば、平野さんの企画書のチェックを頼まれていたんだった。
 チェックと言っても、誤字脱字の修正だけど、なぜか平野さんの企画書はそういう間違いがすごく多いとかで、直人さんがため息をついていたっけ。
「……ホント、多いわ……」
 ざっと見ただけでも変な誤変換が見つかる。
 文章を変えないで漢字変換を直すってだけでもけっこう時間つぶしにはなりそうだった。

 彼が戻ってきたのは、その修正作業がほとんど終わったころ、もう三時に近かった。
 珍しく不機嫌そうに黙って部屋に入ってきて、ため息をつきながらソファに乱暴に腰を下ろした。
 ソファに座ると私に背中を向けるかたちになるから、表情はわからなかった。
 カチッという金属音と漂う煙の匂いで、煙草を吸っていることがわかった。
「……直人さん?」
 私は立ち上がって、ソファの横に近付いた。
 彼が煙草吸ってるところを見たのは初めてだった。
「ああ、……ごめん、煙草嫌だった?」
「ううん、大丈夫だけど」
 でも社内は禁煙ですよ、とか。
 そういうことは黙っていた。
「……お茶、淹れる?」
「ああ、そうだな。ありがとう」
 そのとき、戻ってきて初めて、私の顔を見て微笑んだ。
 今さっきまで難しい顔をして眉間に皺を寄せてたくらいなのに、そんないつもみたいなやさしい顔しないで。
 私は彼から目を逸らすようにして、彼の側から離れた。

 この前彼が好きだと言っていたアールグレイの茶葉を、温めたティーポットに入れる。
 すぐにしっかりと沸かした熱湯を淹れて、蒸らす。
 ちゃんと美味しくなるように丁寧に紅茶を淹れて、部屋に戻った。
「お待たせしましたー」
 私はできるだけ普段と変わらない調子で、ソファの側のテーブルにティーカップを置くと、彼は
「ありがとう」
 と言って、携帯灰皿らしい小さな袋に吸殻を入れた。
 ティーカップに手を伸ばして、一口、そしてまたため息をつく。
 その彼の動作を見つめてしまっていたことに気づいて、慌てて自分のデスクに戻ろうとした。
「ナナ」
「はい」
「……おいで」
 ティーカップがテーブルに置かれる音が小さく鳴った。
「はい」
 彼の側に立つと、手を引かれて彼の隣に座らされる。
「ここにいて」
 ただ、隣に座っているだけ。
「……はい」
 正直、するのかと思った。
 でもそうじゃなかった。
 何があったんだろう。
 不思議に思って彼をちらりと見ても、ただテーブルの上のティーカップを見ているだけに見えた。
「……なにか、お仕事のこと?」
「うん、まあ、仕事……かな」
 なんだかずいぶんと曖昧な返事だ。
「あ、あの企画書、直したんだけど……」
「ああ、ありがとう。助かるよ」
 そう言って微笑む顔は、いつもと同じようで、でもどこか違うようにも見える。
「あの……」
「ナナ」
「はい」
「今日は早めに上がってもいいよ」
「え、でも……」
「たまにはいいじゃない」
 その言葉の意味は、『早く帰れ』ってこと?
「あたし、……余計なこと聞いた?」
 仕事のこととか、聞かれたくなかったのかもしれないと思った。
 でも彼は私の言葉を聞いて、少し笑って答えた。
「いや、全然。でも詳しくは教えられなくて、ごめんね」
「それならいいんだけど……」
「ごめん、……ホント、今日はもういいから」
 一人にさせてということなのか、私がいると都合が悪いのか。
 どちらなのかは私にはわからなかったけど、とりあえず私は出た方がいいということはわかった。
「……じゃあ、帰らせてもらいます」
「お疲れさま」
 ぺこりと頭を下げて、自分のデスクにある荷物をまとめた。
 その間にも彼はまた煙草に火をつける。
「……お先に失礼します」
 私がドアを開けた時に、彼はちらりとこちらを見たように見えた。

 突然こんなふうに時間ができても、ちょっと困る。
 今日は理紗子の休憩時間に合わせて一緒にご飯を食べようって約束していたから、それまでの時間、会社の近くでウインドーショッピングをして時間を潰すことにした。
 でもまずはちょっとコーヒー飲みたいかも、とコーヒーショップに立ち寄る。
 そこのすぐ向かい側に、直人さんと行ったことのあるイタリアンレストランが見えた。
 ……いや、関係ないし。
 お昼は一緒に食べに行くこともよくあるけど、仕事の時間以外には会ったことがない。
 彼のことはいろいろと考えてしまうところはあるし、好きになってきてしまってるけど、結局はそんな程度の関係なんだ。
 あの人にとって私は、仕事の合間の暇つぶしでしかない。
 コーヒーを受け取って二階席に上がり、窓側のカウンター席に腰を下ろす。
 ため息をついてカップを口に運んだ。
 ……最近、ため息ばかりだ。

 本屋に行ったりして時間を潰したあと、理紗子が待つお店に向かった。
「こんばんはー」
「あ、ナナ。おつかれー」
 入口のすぐ側にあるレジカウンターに理紗子がいた。
「時間、ちょうどでしょ?」
「うん、ビール飲む?」
「飲む」
「じゃあ中入って待ってて」
 そう言われて私はそのまま休憩室に入る。
 すぐに理紗子がビールとアイスティーのグラスを一つずつ持って入ってきた。
「どう?」
「どうもこうも……って感じかなあ」
「あーあ、もう辞めちゃえば?」
 理紗子はグラスをテーブルに置きながら、呆れた顔で言うけど。
「でも……うーん、それもなあ……」
 だって、直人さんのことが好きなんだもん。
 どんな形であっても側にいられるなら、って言う気持ちだってある。
「パスタ、今日はワタリガニのトマトクリームあるけど。ナナ好きでしょ?」
「あ、食べる食べる」
 どんなに悩んでいてもお腹はすくんだ。
「注文してきてあげるから待ってて」
「うん、サンキュ」
 休憩室を出る理紗子を見ながら、ビールのグラスに口をつける。
 ホント、どうもこうもない。
 最近の私、ぐずぐずとしていいことなんて全然ない。
 ……でも、変えられない。

 理紗子がお皿を二つ持って戻ってきた。
「はい、これオーナーの奢り」
 と、置かれたお皿には、トマトやリーフレタスの上にパルミジャーノを散らしたサラダが盛られていた。
「わー、うれしい。後でお礼言って帰らなきゃ」
 理紗子もテーブルについて、賄いのペペロンチーノを食べ始めた。
 シンプルなペペロンチーノではなくて、旬の野菜がたっぷり入っている。
 オーナーは野菜の切れ端だって言うけど、でも従業員にもいつも野菜をたっぷり食べさせてくれてたなあと思う。
「それもおいしそう」
「ナナのはもうちょっと待ってなさい」
「えー、一口っ」
 と、理紗子のお皿にフォークを伸ばしたところで、私の携帯電話が鳴った。
「……直人さんだ」
「えっ、なになに?」
「え、なんだろう……ちょっとゴメン」
 と、通話ボタンを押す。
「もしもし」
『ナナ、今、家?』
「ううん、ピアット・ソラーレ、バイトしてたとこだけど……」
『え、夜もバイトしてたのか?』
「ううん、そうじゃなくて、ご飯食べてる」
『そうか。……ちょっと話がしたいんだけど……今からそっち行っても?』
「え、う……うん、いいけど……」
『じゃあ、今会社出たところだから、すぐ行く』
「あ、はい……」
 向こうから通話が切られるのを確認してから、切った。
「藤嶋さんどうしたって?」
 理紗子が少し心配そうな顔をして聞く。
「なんか、話があるって……今ここに来るって」
「えー、なんだろう……じゃあ、あっち出てた方がいいよね」
 と、お客さまが座るテーブル席を見やった。
 キッチン越しにフロアが少し見えるようになっていて、急に込んで来た時なんかは、休憩のときでもすぐに出るようになっている。
「奥の方、ちょうど空いてるみたい。そっちに座ってなよ。あたしもすぐ出るから」
 そう言って理紗子は急いで自分のパスタを口に運ぶ。
「あ、ごめん、理紗子……」
「いいって。話ってなんだかわかんないけど、まあ、がんばってよ」
「……ありがと」
 自分のグラスとお皿を持って、立ち上がった。