Man and Woman

La Vie en Rose

A Last Line 08

 座った席からは入口のドアは見えなかった。
 でも、お店の中のお客さんの話し声や食器の音、キッチンからの音の中にかすかに聞こえる理紗子の応対する声で彼が来たことが分かる。
 どうしてか直人さんの声だけは、やけにクリアに聞こえた。
 目を閉じてふう、と一息、深呼吸をした。

「ナナ」
「……直人さん」
 目を開けると、目の前に彼が立っている。
「理紗子ちゃんと食事してたのか。悪かったな」
 そう言って彼は私の向かい側に座った。
「あ、うん、いいんだけど……」
 話って何? って聞きたかったけど、言い出しにくい。
 そう思ってたところに、理紗子が私の注文したパスタを持って来た。
「藤嶋さん、お飲み物お持ちしましょうか? お食事はどうされます?」
「ああ、じゃあウーロン茶を。食事は済ませてきたから、今日はいいよ」
「はい、少々お待ちください」
 理紗子は私をちらっと見て、テーブルから離れた。
「あの……」
「うん、さっきのことなんだけど」
 『さっき』というのは、社長に呼び出されたことを言うんだろう。
「うん」
 彼の顔は見られなくて、私は俯いたままフォークで食べかけのサラダをつついていた。
「……まあ、せっかくだから食べて」
 そんなふうに言われても、大好きなワタリガニのスパゲティもこんな状態じゃ味もわからない気がする。
 そう思うけど、食べないのももったいないから、仕方なくお皿を引き寄せて食べ始める。
 その間に、理紗子が直人さんにウーロン茶を持って来て、でもすぐにテーブルから離れた。
 気を使ってくれてるんだろう、と思う。
 ため息をつきそうになるのを抑えながら、フォークにスパゲティをくるくると巻き付けたとき、
「ナナはパスタの食べ方上手いよな」
 ふっと直人さんの表情が緩んだ。
「え、そうかな」
「うん、前に一緒に食事した時も、そう思った」
 そんなこと、意識したことなかったし、誰にも言われたことがなかった。
 でもどうして、直人さんは私の知らなかった私の小さなことに、いちいち気がつくんだろう。
 ……どうしてか、泣きたくなった。
 それを隠すように、私はグラスに残っていたビールを飲み干した。
「……明日、見合いしろって言われて」
 突然彼が口にした言葉の意味が、一瞬よくわからなかった。
「え……?」
 彼は自分のグラスを見ているだけで、私とは目を合わせない。
「あの、新しい店出したいって話、してるだろう?」
「あ、うん」
 返事はするものの、頭の中は真っ白だ。
「相手は取引先の銀行頭取の娘って言ってたかな。その相手と結婚することにしたら、やりたい形で出店していいって」
「……そう……」
「プライベートと引き換えに、思うように仕事していいっていうことさ」
 そう言って小さく肩をすくめた。
「そう……なんだ……」
 私は、なんて言えばいいんだろう?
 どうしたらいいんだろう?
 何も思い浮かばなくて、意味もなく空になったグラスを手に取る。
 私は今、どんな顔をしてるんだろう。
 ふと視線を移すと、キッチンの入り口で理紗子が心配そうな顔をしてこちらを見ていた。
 私、理紗子が心配するような顔をしてるんだろうか。
「……あの」
「うん?」
「それって、……別れようって、話?」
 隠そうとしても声が震える。
「……ナナ」
 彼の前では泣きたくないのに、鼻の奥がつんと痛くなる。
 でもそれ以上に、胸がまるで大きな穴があいたように痛い。
「あたし、別に……別に、秘書辞めたって、なんとか、なるし……」
「ナナ」
「だって、はじめから、別になにも……なにも、なかったし……」
 そう、何もなかった。
 好きだからとか、付き合おうとかそういう気持ちは全然なくて、ただ暇つぶしにセックスするだけ。
 彼にとって私は、そんな程度の相手だった。
 でも私は、彼のことを好きになるのを止められなかった。
 どんな形でも彼の側にいたいって思ってたけど、こんなに苦しい気持ちでいなければいけないなら、離れてしまった方がいい。
「あたし、もう……」
「ナナ」
 強く制止するように名前を呼ばれて、口をつぐむ。
 彼はため息を一つついてから、
「出よう」
 と立ち上がって、私の手を取った。
「え……でも……」
 食事の方はもう喉を通る状態じゃなかった。
 でも、どこに行くと言うんだろう。
 私は彼に手を引かれて立ち上がった。
「理紗子ちゃん、会計お願い」
「え、あ、はい」
「あ、あたし自分で……」
「いいから」
 普段はやさしい穏やかな口調だから、たまにこんなふうに強い口調で言われると、どう返事していいのかわからなくなる。
「ごめんね、理紗子ちゃん、ナナちょっと連れていくから」
「あ、……はい。じゃあね、ナナ」
 理紗子は一瞬ぽかんとした表情をしたあと、急にニッコリ笑って手を振った。
「え、や……ま、またね」
 彼に手を引かれるまま、私は店の外に出た。
「どこに行くの? だって、あたし……」
 まだ暗くなって間もないような時間。
 歩いている人も多い中で、早足の彼に引っ張られるようにして歩く。
「だっても何もないって」
 いつもは私に歩くペースを合わせてくれるのに、今日は早足でずんずんと歩いていく。
 私は追いつくのに必死だ。
 ……繋いだ手は、しっかりと握られている。
「や、でもっ……」
 数軒先の駐車場で足を止めた。
「車、置いてあるから」
「だからあたし、そんなつもりは」
「いいから、乗りなさい」
 彼はそう言って助手席のドアを開けた。
「……はい」
 今は何を言っても無駄だとわかって、言われた通りに助手席に乗り込んだ。

「……どこに行くの?」
「うちだよ。僕の家」
「えっ……?」
 私の右側に座る彼を見ると、横目で私を見て悪戯っぽく笑った。

 彼の車は駅にほど近いマンションの地下の駐車場に入っていく。
 あまり馴染みのない街ではあるけど、ついさっき通り掛かった駅名で、そこが割と有名な高級住宅街であることがすぐにわかる。
 所定の場所らしいスペースに車を停めて、エンジンを切った。
「降りるよ」
「……はい」
「不満げだなあ」
 そう言ってくすくす笑う直人さんは、いつも通りの彼に見えた。
「そりゃあ……だって……」
 彼の考えてることが全然わからないから。
 仕方なくシートベルトを外して、ドアを開けた。
「こっちおいで」
 と、手を取られて引いて行かれる。
 なんで、ちゃんと言えないんだろう。
 もう、離れるって。
 ついていけないからって。
 一言でいいのに、どうして言えないの?
 ……やっぱり、離れたくないから。
 それだけの理由で、こうやって……好きだとも何とも言われてないのに、家にまで連れて来られて。
 エレベーターに乗りこみながら、唇を噛む。
 こんなのっていいわけない。
 一番上のフロアでエレベーターは止まって、扉が開いた。

 リビングに入ると、目の前にはまばゆいばかりの夜景が広がっていた。
「……すっごい部屋……」
「たいしたことないよ。そんなに新しいわけでもないし」
 たいしたことあるってば。
 広さは普通と言えば普通なのかもしれない3LDKっぽいけど、一人暮らしにはこんな広さはあまり必要ないと思う。
「……こうやって、女の子連れ込んでるの?」
 私がそう言っても、彼は怒ったりしないで
「女の子はあまり連れ込まないよ。家が知られると色々面倒だから」
 と、笑う。
 ……それもどうなの。
 部屋を見回すと、ウォルナット色の家具とグレーに近いような色合いのファブリックで揃えられていて、シンプルだけど上品なインテリアになっている。
 大きな鳥が翼を広げたような形の一人掛けのソファや、ダイニングに下げられている三枚のシェードが重なったデザインの照明は、雑誌で見かけたことがあるデザイナー物だ。
 それらが部屋のポイントになるようにセンス良く配置されている。
「……きれいなお部屋だね」
「そう? まあ、掃除は頼んでるし、それなりにはなってると思うけど」
 掃除頼んでるとか、どうなの。
 本当に、この人と私は住む世界が違うんだ。
 私はまた一つため息を零す。
「コーヒーでも淹れようか? ナナみたいに上手くないけど」
 ジャケットを脱いでダイニングの椅子に無造作に掛けて、ネクタイを外しながら、彼が声をかける。
「……ううん、いい」
「じゃあ、ビールでも飲む?」
「……うん」
 彼は少し笑って、キッチンの冷蔵庫から缶ビールを二本取り出して、一本を私に渡した。
 でも本当は飲みたいわけじゃないから、缶を開けずにただ両手でその冷たさを確かめるだけだった。
「……ナナ」
「……うん」
 私は俯いたまま返事をする。
 小さくため息をついて、彼が私に近付く。
 私の手からビールの缶を取って、テーブルに置いた。
 顔を上げると、そっと腰に手をまわして唇を重ねる。
 ……こんなこともうしたくないって気持ちもある。
 私、嫌だって言って、振りはらえばいいのに。
 それができない自分が腹立たしい。
「……おいで」
 絡め取られた指は、離せなかった。