Man and Woman

La Vie en Rose

Sweet reality

 あれから、すぐに会社を辞めるなんてことは、さすがに重役クラスの直人さんには無理な話で。
 役員会だとか会議だとかで他の役員さんの了解を取って正式に辞任するというので、結構時間がかかった。
「無職って言っても、すぐに仕事はじめるんでしょう?」
「まあね。もう物件も抑えたし、退職金もちゃんと貰えることになったし。今の会社で良かったことって、あちこちに顔がきくようになったってことかな」
「……そう言えば、なんだけど」
「なに?」
「あたし、どうしたらいいのかな?」
 自分でもすっかり忘れてたことなんだけど。
 彼のことばかり考えてて、自分はどうするのか何も考えてなかった。
「そりゃあ、……誰か他の人の秘書する?」
「えっ、無理」
 秘書のお仕事自体、最初からあまり出来るものじゃなかったのに、その辺はなんとなくうやむやになって今の私たちの関係がある。
「それなら、僕のとこで働いてくれたら嬉しいな」
「そっか。……なんのお仕事するの?」
「今度出す店、物販だけじゃなくてカフェも出そうと思ってるんだ。そこでどう?」
「へえー、楽しそう。でも、飲食店って資格要るんじゃなかった? あたしそんな資格持ってないけど」
「それは今頑張って貰ってる人がいるから」
「へえー……あれ? もしかして」
 そう言えば、ちょっと前から資格取るんだって言って勉強を始めた人が身近にいる。
「そう、理紗子ちゃん」
「ええーっ、そうだったんだ。わあ、なんか楽しみかも」
 そう、理紗子。
 飲食店の責任者に必要な資格を取ることにするっていう話をしていた。
 でもそんな平野さんと直人さんのお店に入るって話はまだ全然してなかったし、急に勉強で忙しいからって遊べなくなってたんだった。
 私に黙って、驚かそうとしていたに違いない……。
「仕事しないと生活できない訳だし、ここ辞めたらすぐに準備始めないと。忙しいよ?」
「うん、そうだろうね。あ、よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げると、彼はくすくすと笑った。
「そろそろ帰ろうか」
 そう言った彼の肩越しに見える街の景色は、もうすっかり夜の景色だ。
「あ、……はい」
 あの日から、二週間。
 週末は直人さんのマンションで過ごすようになった。
 今日は、そんな金曜日。

 晩ごはんに中華のお店に入って、やっぱり話すことはさっきの続きのようなこと。
「とりあえず会社に行くのは今月いっぱいだな。そのあと一か月は在職してることになるけど、有給残ってるし」
「え、じゃあ、あたしどうしよう?」
 働かないと家賃も光熱費も払えないし、いろいろと困る。
「じゃあ、僕のうちに来るってのは、どう?」
「……え?」
 今日泊まりに来る? みたいな口ぶりだけど、ちょっとしたお泊りとは違うわけで。
 私は思わず聞き返す。
「家賃はいらないよ?」
 あのマンション、大学に入学したときに彼のお父さん……今の社長さんが買ってくれたとかいう話を聞いた。
 入学お祝いにマンションって何かがおかしいと思う。
「……でもそういう問題じゃないでしょ?」
「そうだなあ、公益費管理費は必要だから、そのうち少し払ってくれたらいいかな」
「いや、だから、そういう問題じゃないよねって……」
 だってそれ、プロポーズとまでいかないみたいだけど、……そういえばプロポーズじゃないのね。
 いや、プロポーズされても、なんだか急だとは思っちゃうけど。
「とりあえず無職だし。起業すると言っても、このご時世、どうなるかわからないし。その状態でプロポーズなんかできないなって思うんだ」
 と、私が思ったことがわかったみたいなことを言う。
「……そう言われたら、そうかも」
「もし失敗したときにね。ナナを巻き込みたくないし」
「え……えっと、あたしは大丈夫、だけど」
 私の言葉に、直人さんは首を振る。
「失敗はしたくないし、する気もないんだけど、こればっかりはわからないところも多いから。だからもう少し、待ってほしいんだけど」
「あ、うん」
「でも、側にいてくれたらなって。……矛盾してるなあってわかってるけど」
 と、肩をすくめて苦笑する。
「えっと、……うん、そうできれば、すごくいいなって思うけど」
「けど?」
「うーん……親に言わないでいるのも、ねえ……って」
 時々実家には帰ってるし、私のマンションに親が来るってことはあまりないから、バレないかもしれないけど、やっぱり黙って引っ越しちゃうのはよくないと思う。
「なるほど」
 でも彼のうちに引っ越すってことは同棲ってことで、それって……大丈夫かなあって心配になる。
「どうしよ」
「挨拶しますか?」
「えっ……」
「僕は構わないし、そういうのきちんとしておきたいならそうするし」
「でも、もし、ダメって言われたら?」
「それはそのとき考えればいいんじゃない?」
「……なるほど、ね。……直人さんって」
「うん?」
「意外と、無鉄砲?」
 会社辞めちゃうのも、新しい会社作るのも、私と同棲することも。
 そのとき考えればいいって、そう言ってしまえばそうなんだけど、なかなかそうやって行動できる人って少ないと思う。
 当の直人さんは首をかしげて、
「これでも落ち着いたと思うんだけど」
「えー、何それー?」
 私が眉をひそめても、彼はただくすくすと笑うだけだった。


 先延ばしにするよりは早く済ませちゃったほうがいいってことで、次の日にお母さんに電話して事情を話した。
 お父さんにはちょっとまだ内緒ということで、とりあえずお母さんだけ。
 彼とつきあうことになった経緯なんかはさすがに言えないけど、バイト先で知り合ったということで、それでも間違いではないし……。
 同棲したいって聞いてお母さんはびっくりしてたし、最初はいい風に思ってなかったようだけど、日曜日にお父さんがゴルフに行っている間に彼とふたりでお母さんに会いに行ったら、意外にも簡単にオーケーが出た。
「なんか素敵じゃない、直人さん。いいなー」
 なんてこと言って、逆にそんなことでいいのか? って思っちゃうくらい。

 その日の夜。
「ま、オーケー貰えたからよかったんだけどね」
 お母さんの態度を思い返しては若干納得のいかない気持ちで、彼の車で私のマンションまで送ってもらう。
 もうマンションはすぐそこではあるけど、道は少し混雑していて、窓の外の景色はゆっくりと流れていく。
「休みに入ったら引っ越ししようか」
「そうだねえ、いろいろ手続きしておかなくちゃ」
 家具とかは処分するものもあるだろうし、マンションの管理会社にも連絡しないとだし。
「大変だけど、……ドキドキするね」
「え?」
「直人さんと一緒に住むなんて、考えてもみなかったよ」
 私がほうっと息をつくと、彼は笑って、
「それは僕もだ」
 と言って、私の右手を握って指を絡める。
 その指に軽く力がこもってから、手が離れた。
「着いたよ」
 車を路肩に寄せて停める。
「ありがとう、混んでるのにごめんね」
「全然。また明日」
 そう言って、耳元の髪を撫でてから、顔が近付いてきて軽いキスをされる。
「そ、外はダメっ」
「もう暗いから見えにくいって」
 なんて言って笑って、絶対私を困らせるためにやってるとしか思えない。
「でも見えるかもしれないでしょっ」
「はいはい」
 それに、……なかなか、帰りにくくなっちゃうし。
「んっと、……また、明日」
 そんな気持ちはぐっと抑えて、助手席のドアを開く。
「おやすみ、ナナ」
 車から降りた私に、やさしく微笑んで声をかけてくれる。
「おやすみなさい。帰り、気をつけて」
「ありがとう」
 ドアを閉めると、彼は左手を軽く上げてから、車を発進させて行った。

 車が見えなくなるまで見送っていると、少しひんやりとした風が体温と微かに残っていた彼の匂いを奪っていく。
 私は巻いていたストールを口元まで上げて、急ぎ足でマンションの玄関に入った。
「……そういえば、毎日一緒にいるんだ」
 エレベーターでぽつりと呟いた。
 平日は職場でずっと一緒、休みの日も一緒に過ごす。
 でも、こうやって自分の部屋に戻ったら、やっぱり一人で。
 一人なのが当たり前だったはずなのに、日曜の夜はなんだかぽっかりと寂しい気持ちになる。
 不思議だ。
 まだちゃんと付き合い始めてちょっとしか経ってないのにな。
 自分の部屋のカギを開けて、暗い部屋の明かりを付ける。
 この部屋とももうすぐお別れか。
 なんて、なんだか今日は感傷的かも。


 月曜日、いつも通りに会社に行くと、いつも通りに私より少し先に来ていた直人さんが
「おはよう」
 と、微笑む。
「おはよう……ございます」
「どうした?」
 彼は不思議そうに首をかしげる。
「うん、なんでも……うん、なんでもないから、なんか不思議な気分になっちゃった」
 彼はやっぱり、意味がわからないと言いたそうな表情になる。
「うーんと、まあ、今日も直人さんに会えて、う……うれしいな、……と」
 自分で言ってて恥ずかしくなっちゃって、最後の方は小さな声になってしまうけど。
 彼はちょっと吹き出すようにして笑ってから、
「それにしては微妙な顔してたから、どうしたかと思った」
「そ、そう? うーん、なんか、安心した、っていうのかな……そんな感じ」
「なに? 昨日の夜寂しかったわけ?」
 と、悪戯っぽい表情をして、私の顔を覗きこむ。
「え、いや、う……うん……ちょっとだけ、ね」
 小さな声で答えると、それだけでも満足したような顔をする。
 ……案外、子どもっぽい。
思わず肩をすくめて、自分のデスクについた。

 その日の夕方。
「おつかれさま」
「おつかれさまでした」
「この後どうする?」
「どうって……」
 彼の顔を見ると、悪戯っぽい微笑み。
「ひとりで帰る?」
 妙に『ひとりで』という言葉を強調してるように聞こえるのは、気のせいでしょうか?
「ひとりで帰るよ。……誘われたら、寄り道くらいしてもいいけど」
「素直じゃないなあ」
「……そういう顔されると、簡単にいくもんかって思うじゃん」
「意地っ張りだよなあ」
 彼はそう言って吹き出す。
「元々そういう性格なんですーっ」
「そうだなあ、……ナナの意地っ張りのおかげで今こうしてる気がする」
 と言って目を細める。
「えー?」
 彼の言っている意味がよくわからなくて、聞き返したけど、
「まあ、いいや。じゃあ食事でも一緒にどう?」
 と言いながら、デスクの上のノートパソコンを閉じた。
「……つきあってあげてもいいですよ」
 つい唇を尖らせて、私がそう返事をすると、彼は面白そうに笑った。


 結局、直人さんのマンションに泊まってばかりでその月が過ぎていった。
 新しい月になってから、荷物を片づけて彼のマンションに正式に引っ越しをした。
 家具とか、古くなってきてたものは処分した物もあるけど、気に入ってるけど今は使いそうもないという物はとりあえず使ってない部屋に入れてしまって、引っ越し完了。
「あんまり片付いた感じしないけど」
「今月は時間もあるし、その間に片付けてくれればいいよ」
「……片付け苦手なんだよねえ……」
 彼はため息をつく私の頭をぽん、と撫でて、
「新しい仕事の準備もあるけど、まあ、今月はこっちが優先かな」
 と、段ボールの山を眺めて言った。


 外でお仕事をしてるわけじゃないのに、荷物の整理をしたり二人で暮らすための物を買い足していたりするうちに、あっという間に日にちが過ぎて行った。
 ……直人さんといちゃいちゃしてるうちに一か月が過ぎて行った気も、しないでもない。
 なんか、ちょっと、意外。
「……直人さんって」
 今日は普通に起きて朝ごはんを食べたけど、そのあとは……いつの間にか寝室に連れられていってしまって。
 ベッドで抱き合った後、私はまだくったりと動けないでいる間、彼は私にキスをしたり身体に軽く触れたりしていた。
「なに?」
「……もっと、クールなタイプだと思ってた……」
 だって、今はレースのカーテンの向こうは明るくていいお天気で、本当はこういうことをするような時間ではないと思う。
 ……いや、ちょっと前までは会社でしてたんだけど、それとこれとはまた違う気がする。
 彼は、
「意外性っていうのも良くない?」
 なんて言って、笑ってる。
 前から、無表情ってタイプではなくて、いつも穏やかに微笑んでて……でも本当に思ってることはわからない、そんな人に見えた。
 今はもっといろんな顔を見せてくれて、その度にどきどきする。
 そんな気持ちを隠すように、私はちょっと愚痴っぽく、
「今日は買い物行こうと思ってたのに……」
 と、言ってみる。
 こんな時間からゆっくりしちゃってどうするの。
「うん、行こう」
「……まだ無理」
「でもそろそろ昼だし」
「えっ、もう!?」
 ありえないよ、こんなの……。
「仕事始めるまでの間だけだからさ、こういうの」
 そう言って彼はベッドから降りた。
 有給消化中と言っても、時々平野さんが打ち合わせと言ってうちに来るし、お店にする場所の契約とか改装の打ち合わせとか、そういうのももう始めていて、出かけることも多い。
「こんなのんびりしていられるのはあとちょっとだよ? 楽しまないと」
「こういう楽しみ方は……どうかなって思うよ……」
 自堕落というか、こんな生活してて来月からちゃんと社会復帰できるだろうかと、ちょっと心配になる。
 でも、シャツを羽織りながらこっちを見る直人さんの、肩越しの笑顔がやっぱり好きだと思った。


 買い物をして帰ってきたらもう夕方で、急いで晩ごはんの準備を始める。
 先月まではこのキッチンはがらんとした感じだったけど、調理家電も食器も揃えて、二人で暮らすのに不便がないようになった。
 その分、モデルルームみたいだったこの部屋もかなり生活感が出てしまったけど。
 でも実際生活してるんだから、仕方がない。
「手伝う?」
 そして彼は、今まで料理なんて全然してないって言ってたのに、私が料理してるのを見て面白そうとか言って、いろいろとするようになった。
 まだ料理するようになってちょっとしか経ってないのに私より手早かったりして、それにも驚いたり。
 一緒に住んでみないとわからないことってある。
「えっと、じゃあ、玉ねぎスライスしてもらっていいかな? 四分の一くらい。サラダにしようと思って」
 玉ねぎ切るのちょっと苦手だったりするから、やってもらっちゃおう。
「いいよ」
 彼はコンタクトのせいか、玉ねぎが目に沁みにくいみたい。
 コンタクトをしてるってことも、この部屋に泊まるようになってから知ったこと。
 マカロニを茹でているお鍋を箸でゆっくり混ぜながら、ダンガリーのシャツの袖を捲って包丁を握る彼の横顔を見つめた。
 いつも会社で見ていたスーツ姿も好きだけど、今みたいな洗いざらしのシャツをラフに着ているのも彼に似合っていると思う。
「なに?」
 すぐに私の視線に気づく。
「ん、なんでもない」
 なんだか、まだ不思議な気分だ。
 私のすぐ隣に直人さんがいて、一緒にごはんを作ってる。
 今のこんな現実、ちょっと前には考えてもみなかったこと。
「……不思議だなって、思うんだ」
「え?」
 私が思ったこと、そのまんま彼が呟いたからびっくりした。
「こんなふうに、女の子と一緒に住んで料理してるなんて、考えたこともなかったよ」
 と、彼はまな板の上の玉ねぎを手際よくスライスしながら笑う。
「あたしも、思ってなかったよ。でも、……悪くない、よね」
「僕は、すごくいいって思ってるけど?」
 使い終わった包丁を洗いながら、悪戯っぽい笑顔でこちらを見る。
「……うん、あたしも、そう思う」
 私の返事を聞いて満足そうな表情を浮かべるのがなんだか子どもっぽくて、でもそんな表情を見ると照れくさくて。
 私はつい、下を向いて意味もなくお鍋の中をぐるぐるとかき混ぜてしまう。
「これからも、楽しみだな」
 そう言う直人さんの声がやさしくて、穏やかで。
「……うん、あたしも、そう思う」
 これが私の、……私たちの、現実。

END


パチパチあるととってもうれしいです。感想やコメントもお気軽に残してくださいね。(イラスト出ます)

Christmas edition 2011/12/01
Rewriting 2012/02/00