Man and Woman

satisfaction moment

05. 青天の霹靂

「電話?」
 私の着信音とは違う、くぐもった音が小さく聞こえる。
「あ、僕だ。……マジかよ……」
 大きくため息をついて、彼が起き上がってベッドから降りた。
 ソファの上に置いてあった鞄を開けると、その音はクリアになる。
「もしもし? はい、……えー? 今は……なんとかならない?」
 これは、たぶん、呼び出しのお知らせ。
 ごくたまにだけど、システム障害なんかで夜遅くに呼び出されることもあるらしい。
 こんなふうにデート中……しかもセックス中に呼ばれることは半年以上つきあってて初めてだけど。
 ふと空気が少しひんやりと感じて、私はシーツを引っ張って身体に巻きつけた。
 彼はほんとうに困った様子でソファに腰を下ろして話をしている。
「うーん、でもすぐには無理だから。二時間くらいは……そう。何かあればまた連絡して」
 と言って、またため息をついた。
「呼び出し?」
「もうほんとに……ほんとごめん。こんなときに……」
「しょうがないよ、仕事だし。平日だし」
 さっきまでの時間が嘘みたいに、すっと熱が冷めてしまって、自分でもちょっと驚いちゃうくらいに落ち着いて話してる気がする。
「しょうがなくないよー。ほんとうにごめん。申し訳ない」
 と、私のそばに座って、ふたりの額を合わせた。
「まあまあ」
 私は彼の肩をぽんぽんと軽く叩いてから、彼の短い髪を撫でる。
「ちょっとだけ長く時間言っておいたから、風呂入って行こう」
「一緒に?」
 と聞くと、彼は上目遣いで目を合わせた。
「だめ?」
 その顔ほんとかわいいからだめだって。
 他の誰にも見せたくないな、って思う。
「いいよ」
 それ以外の返事なんてできないよ。
 どちらからともなく軽いキスをして、手を繋いでベッドから降りる。
 その瞬間に裸足の足裏に感じた床の温度がやけに冷たくて、足早にバスルームに向かった。
「髪は洗ってる時間はないよね」
 洗ってタオルドライのあとブローして、ったら時間がかかっちゃう。
「あー……ごめん」
「あ、ううん、帰ってから洗うからいいよ」
 明日の朝でもいいかな、とも考える。
「お背中流しましょうか?」
 と、私がおどけると、ようやく彼に笑顔が戻った。
「僕がするよ」
「じゃあ、順番に」
 二人でいても充分すぎるほどに広いバスルームで、身体を洗いあってたらやっぱり少しは気分が上がってしまって、泡にまみれたままの身体で抱き合ってキスをする。
 でも。
「……こんなことしてる時間ないよね」
「まあ、そうなんだけど」
「帰ろっか」
 私がそう言って身体を離すと、彼は苦笑いして小さくため息をついた。
「……ほのかは意外としっかりしてるよな」
「意外に見えるかな?」
「まあ、かわいい雰囲気のタイプだから」
「そう?」
 そう思われてるなら、まあまあうれしい。
 やっぱり好きな人にはかわいいと思われたい。
「でも女王様だし、えっちだけど」
 と笑うから、私は自分にかけ流していたシャワーのお湯を彼に向けて飛ばした。
 思い切り顔にお湯がかかって、彼は目をぱちぱちと瞬かせる。
「哲弥さんがそうしたがるからでしょ?」
 私が唇を尖らせると、面白そうに笑った。
「そうだけどー、でもそうしてくれるだろうなって思ったから」
「うー、わたしってえっちそうかな」
「普段は全然、下ネタもダメそうに見える」
 そこまでではないと思うけど。
「それなら、まあ、いっか……」
「うん、そのギャップがいい」
 と、哲弥さんは笑った。
「絶対、人に言っちゃだめだからね」
 そういうこと、人には知られたくないなと思ってそう言うと、哲弥さんは吹き出した。
「もちろん、そんな話しないよ」
「そうだよね」
「まさか、女の子ってそんな話するの?」
「うーん、普通はしない」
 酔っ払ったときには、ちょっとえっち経験の話もすることもあるけど、滅多にないし。
 そもそも最近の哲弥さんとのセックスみたいな話は、誰にも話せないと思う。
「普通は……」
 眉間にしわをよせて怪訝な顔をするのを見ると、少し笑ってしまう。
「いや、しないしない」
「ほのかだけだからさ、ほんとに」
「え……そうなの?」
「まあ、そう」
 まあ、って濁す感じがあるけど。
 そうなら、そうなのかな。
「じゃあ、ふたりの秘密なのね」
 普段はごく普通のカップルだけど、セックスはすごく激しいとか。
 他の人もそんなだったりするのかな。
 私たちだけなのかな。
 ちょっとわからないけど、でも。
「そういう言い方、興奮するな」
 と、私が思ったことを哲弥さんが口にする。
「……でも、今日はもう帰らなきゃ」
「あーあ、ほんと悪いな。いつか埋め合わせするから」
「うん、期待してる」
 と軽くキスだけして、バスルームを出た。


 哲弥さんは私を自宅まで送ってくれてから、仕事先に向かった。
 少しだけの気だるさを感じながら、部屋に入る。
 ……仕事だもん、しかたない。
 わかっているけど、どこか釈然としないところもあって。
 もやもやした気持ちのまま、身支度をしてベッドに入る。
 物足りなかったってわけじゃない。
 短い時間だったけど、お互いをさらけ出しあって愛し合ったと思ってる。
 でもやっぱり、中途半端だったなぁって思うのもあって。
 ため息をついて布団に包まると、それでも眠気は訪れるもので、そのうち眠ってしまった。


 次の日、勤務状況がわかるようになっている掲示板では、彼は外勤と表示されていて、私は小さくため息をつく。
 昨日は家に帰れたんだろうか、と心配になった。
 昨夜から連絡は何もない。
 もともと逐一連絡しあうわけでもないし、私にとってはいつも通りの朝だ。
 デスクについてパソコンを立ち上げ、メールを受信したところで、
「朝礼はじめまーす」
 と言う同僚の声で顔を上げて立ち上がった。
 毎日同じ朝。
 昨夜のことが夢だったみたいに思った。



 昼の休憩からデスクに戻ってきたときに、上司から声をかけられた。
「塚本さん、ちょっといいかな」
「あ、はい」
「新規プロジェクトのメンバーに、塚本さん、入ってもらえるかなと」
「え、わたしですか?」
 わりとクリエイティブな仕事も多い会社だけど、私自身は事務職だからプロジェクトなんていうものとはあまり縁がないものと思っていた。
「うん、今回は広く人材を確保して色んな角度から意見を出し合うのがいいってことになったようで、塚本さんもって言われたんだ。勉強になるとは思うけど、負担になるようなら無理はしないでいいんだ」
「あ、わたしでよければ、参加させていただきます」
 たまに違う仕事をしてみるのも悪くない。
 そう考えた。
「そう?少し忙しくなるとは思うけど、大丈夫?」
「はい、やってみます」
「じゃあ、普段の仕事はこっちで分担するようにするから、気にしないで。で、これが今後の予定とか、目を通しておいたらいい資料」
 と、厚みのあるファイルが渡される。
 その重みに降って湧いたようなこの仕事の大きさが想像できた。


 その日は家に帰れたのはいつもよりもかなり遅い時間になっていた。
『聞いたよ、新規プロジェクト』
 と携帯電話からは彼の声が聞こえる。
「なんかね。こんなことになるなんて思ってもいなかったんだけど」
 晩ごはんの支度をするのも億劫で、近所のコンビニで買ったお弁当を食べ終わったところだった。
『いいなぁ、僕もほのかと一緒に仕事したかった』
「えー、なんだか何をすればいいのかよくわからなくて。私でいいのかなって」
『配置換えもあるのかもなぁ。期待されてるんだよ、きっと』
「そうなのかなぁ。ちょっと忙しくなりそうで」
『うん、そうだろうな。頑張って』
「土曜日にどうしても行かなきゃいけないんだって」
 今までは休日出勤なんてしたことがないんだけど、月曜日の朝までに打ち合わせしてしまわないとならない件がいくつかあるそうだ。
『ああ、そうか。今週は会えないかなぁ』
 仕方ない、と小さな声で言ってため息をつくのが聞こえてきた。
「哲弥さんも忙しいでしょう?」
『まあね。さすがに土曜日は休みだけど。少し家事でもするよ』
 と笑う。
『日曜日は?』
「大丈夫だよ」
『じゃあ、日曜に会おう。ほのか、疲れてるかな』
「わたしも会いたいから、大丈夫」
『……そういうの、ほんと』
「え?」
『かわいい』
「やだ、何言ってんの」
『そうやって言ってくれるのが、いいなぁって』
「だって、そう思ったから」
 今さらツンデレとか駆け引きとか考えないで、素直に自分の気持ちを伝えたいだけだけど。
 そう思えるのは、お互いにあまり表に出すことのなかった性癖もさらけ出せるようになったせいも少しあるのかもしれない。
『じゃあ、日曜日に。ゆっくりふたりで過ごそう』
 その言葉には少し色っぽい意味も込められているのが感じられて、ふと身体の奥が熱くなる。
「ん、そうだね」
『おやすみ、ほのか』
「おやすみなさい」
 やさしい声の余韻に浸りつつ、通話を切る。
 こんなに幸せでいいのかなって思うくらい。
 仕事が忙しくなるのは予想外だったけど、これからのことを考えたらキャリアアップの機会だと思う。
 将来的に結婚ということになっても、仕事は辞めないつもりだし。
 ……哲弥さんと結婚、というのはあるのかな。
 まだそういう話はしていないし、そんなに長く付き合っているわけでもないから、ピンと来ないところもある。
 でも、彼もそれなりに家事はするようだし、ふたりで暮らすことになっても私ばっかりに負担がかかるということはなさそうだ。
 ……たぶん。
 哲弥さんは、どう考えているのかな。



 土曜日の朝から昼過ぎまで、プロジェクトのメンバーと打ち合わせをして、決めてしまわないといけないことはしっかりと終わらせた。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでしたー。塚本さん、慣れない仕事だろうけど、どう?」
 と、このプロジェクトのリーダーでもある先輩がにこやかに話してくれる。
「わたしみたいな専門外がメンバーに入ってるのも申し訳ないくらいなんですけど、でも楽しめそうです。いや、楽しいだけではダメなんでしょうけど」
「ううん、楽しく仕事できるのが一番だよ。忙しくはなるけど」
「そうですね。でもせっかくメンバーに入れていただけたので、精一杯頑張ります」
「ありがとうね。今日はお疲れさま。また来週よろしくね」
「はい、また来週」
 少し頭を下げて、会社を出た。


 土曜の午後は人通りが多い。
 仕事帰りではあるけどちょっと寄り道して、数日前にSNSで見た期間限定のスイーツを買って帰ろうと思ってデパートへ向かった。
 デパートに入るとまず目に入るのはアクセサリー売り場で、買う予定はなくても見入ってしまうこともある。
 急いでいるわけでもないし、と立ち止まったとき、やや離れた場所に哲弥さんが見えた。
「えっ……?」
 哲弥さんは私には気づいていないようだ。
 そして彼の隣には、女性の姿が見える。
 その瞬間、心臓がどくんと音を立てた。
 店員さんかと思ったけど……制服ではないから違うようだ。
 親しげに話しているから全然関係ないお客さん同士でもなさそう。
 誰だろう?
 会社の人でもない。
 見たことのない女の人。
 友達、とか。
 女の子同士ならともかく、男の人って女友達とこんなアクセサリー売り場見る?
 なんだろう、誰だろう。
「お客さま、なにかお探しですか?」
 ふとショーケースの向こうから声をかけられて我に返った。
「あ、いえ、すいません……かわいいなってちょっと見てただけで」
「気になるお品物があればお声がけくださいませ」
 と店員はにこやかにしながら一歩下がった。
 彼はまだ私には気づいていない。
 隣の女性と楽しそうに話している。
 ……どうして、かな。
「……ありがとうございます、また来ます」
 店員に声をかけてその場から離れた。
「ありがとうございます、またご覧にいらしてくださいませ」
 店員の声を背中で聞き流して、でも彼のそばになんて行けない。
 私はまっすぐにデパートの玄関に向かって、外に出た。


 まさかね。
 そんなことあるわけない。
 でも誰なのかわからないし、場所が場所だけに、不安になってしまう。
 どうしよう、聞いてみたらいい?
 でもそんなこと、聞けない。
 まさかとは思うけど、そのまさかだったらどうするの?
 私は結局、買うつもりだったスイーツのことも忘れてそのまま地下鉄に乗り込んで、そして頭の中ではずっと彼のことを考えていた。